捉えた時流 家業繁栄にまい進

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天草陶石ものがたり ③陶土製造 水車時代経て

 時折届く電報の文面は簡潔にして要領を得ていた。

 「60トンデタ ウ」

 天草陶石60トンを積んだ船が天草の港を出港した、と採石業者の上田陶石が知らせてきたのだ。

 渕野義則さん(80)=佐賀県嬉野市=は1963(昭和38)年に高校を卒業し、家業の陶土製造を手伝っていた。三輪トラックのハンドルを握り、陶石を引き取りに向かった先は、近くにあった川港の塩田津(しおたつ)。有明海に通じ、潮の干満差を利用した水運で栄えた。

 高校在学中に父親に運転免許を取らされた。卒業後の進路も父が決めていた。「どこへも行かないでうちで働け」。父は張り込んで80万円の新車を買った。

 父の代には馬車が頼り。港に石を取りに行くにも、仕上がった粘土を有田焼などの窯元に届けるのにも使っていた。

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 創業は1887(明治20)年。コメ作りとの兼業。塩田川の水を引いて水車を回し、モチつきのようにきねと臼で陶石を砕いた。

 水の利用はコメ作りが優先。水車を回せるのは10月から6月初めまでの農閑期に限られた。「半農半陶の生活は昭和20年代まで続いた」。1944(昭和19)年生まれの義則さんには水車時代の記憶がある。

 効率を一気に高めたのが電動モーターの導入。1年を通じて操業できるようになった。

 「戦後の復興期に入り、有田焼などの焼き物の生産が増え、陶土の需要も高まった」

 佐賀県有田町長崎県波佐見町の焼き物産地に近く、水利や舟運の好条件がそろったこの地では、江戸期から陶土製造が始まった。義則さんの周辺では戦後、最盛期に20軒近くが操業するようになった。

 時代のテンポは早まる。陸上交通網の発達で川港は廃止。陶石はダンプカーに積み込まれてフェリーで有明海を渡り、直接搬入されるようになった。「まさに時代の潮目だった」と振り返る。

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 息子の直幸さん(53)は「進学するなら、東京工業大か名古屋工業大」と父から言い聞かされて育った。なぜ東工大か名工大なのか。実は受け売りだった。

 高度経済成長に後押しされ、義則さんは陶石を粉砕する新鋭機を導入。コストを抑えた粘土づくりに乗り出したのだが、焼きあがった製品が次々と割れるトラブルに見舞われた。

 そのとき、教えを請うたのが岐阜県の同業者。「勘や経験に頼るのではなく、化学の知識に基づいた土づくりが大切なことを思い知った」。助言は息子の進路にも及んだ。

 直幸さんは期待通り、現役で名工大に進んだ。2002年に社長に就任。製品の品質を高めるため、分析機器を導入する一方、経営不振の同業他社の買収も手掛けた。

 「市場がどんどん縮んでいる。この地域でどう稼いで、従事する人をどう食べさせていくか」

 時代の風向きに即した経営に知恵を巡らしている。

(元朝日新聞記者・田中彰)

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