第1回特攻に突き進んだ日本軍 「一撃講和」に固執、若者6千人が戦死
1941年12月8日に始まった太平洋戦争。戦況は当初、ハワイ・真珠湾の奇襲攻撃を成功させた日本軍が優勢だった。
しかし、42年6月のミッドウェー海戦で日本海軍は空母4隻を失う大敗を喫し、以降、戦線は徐々に後退。44年6月のマリアナ沖海戦ではさらに空母3隻を失い、翌7月には「絶対国防圏」の重要拠点であるサイパンが陥落する。
開戦時のアメリカの国民総生産(GNP)は、日本の10倍以上。このころになると、工業生産力で劣る日本の航空戦力はほぼ消耗し、米軍に対抗できる状態ではなくなっていた。
サイパン陥落後、「特攻やむなし」に
旧防衛庁防衛研修所がまとめた公刊戦史・戦史叢書(そうしょ)によると、戦況が悪化する中、軍内部では43年秋ごろから飛行機による体当たり攻撃が提案されていたが、当初は一部の研究にとどまっていた。だが、サイパン陥落を機に、「特攻やむなし」の意見が強まっていく。
戦史叢書には、44年10月に海軍第一航空艦隊司令長官に就任した大西瀧治郎中将が、20日にフィリピンで「神風特別攻撃隊」を編成した経緯が記されている。
太平洋戦争の後期、劣勢に追い込まれた日本は、生還が見込めない体当たり攻撃である「特攻」を組織的に実行しました。背景には、軍部が当時抱いていた特攻への期待がありました。
大西中将は赴任前、海軍軍令…