第3回「犬死にだ」「でも行く」 生還した元隊員が振り返る特攻出撃の現実
約80年前の1945年5月、倉本宣男さん(99)=三重県熊野市紀和町=は爆撃機「銀河」で太平洋上空を飛んでいた。
目的地は、日本から約3千キロ離れた西太平洋のウルシー環礁(現ミクロネシア連邦)。沖縄を攻撃する米軍艦隊の前線拠点となっていた場所だ。
800キロ爆弾を積んだ3人乗りの銀河で米艦に体当たりする際、無線で僚機に突撃を告げる役目だった。
「自分の任務に集中しよう、無駄死にはしたくない。それだけだった」
遺書を書かずに出撃
三重県生まれ。時代は戦争一色だった。
村の人が徴兵されていく中、「どうせ徴兵されるなら」と16歳で海軍飛行予科練習生(予科練)になり、42年5月、土浦海軍航空隊(茨城)に配属された。
訓練中、太平洋戦争の戦況はどんどん悪化していった。44年秋に都城基地(宮崎)の部隊に配属されたころには、日本の海軍航空部隊はほぼ壊滅。同年10月、日本軍は、人が乗ったまま敵に体当たりする「特別攻撃(特攻)」を組織的に始める。
倉本さんに特攻出撃が命じられたのは45年5月。目的地は、米艦隊の前線拠点であるウルシー。「第四御盾特別攻撃隊」と命名された銀河24機、乗組員72人の部隊の一員に、いつの間にかなっていた。
鹿屋(鹿児島県)に移動し、7日午前4時に起床。爆撃機に乗り込み、飛び立った。
熊野の実家には届かないと思い、遺書は書かなかった。
「犬死にだ」「それでも行く」
編隊は、太平洋上を南へ向かっていた。
だが、沖ノ鳥島上空で二つの…