第5回紛争の現場で出会った「忘れられた人々」 冷戦終結後の世界のリアル

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国際報道部 喜田尚
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 平成から令和にかけて世界の紛争地を取材してきた喜田尚記者は、政治や国際的な駆け引きに翻弄(ほんろう)されながらも懸命に生きる人たちと接するなかで、忘れられた人々の存在を伝える仕事をしたいと思ったと言います。しかし、冷戦終結後も世界は緊張をはらみ、安心を得られぬ人々は後を絶ちません。自由で抑圧のない世界は見果てぬ夢なのでしょうか。自らの来し方を振り返り、未来に向けてつづります。

 新聞記者になって今年で40年になる。1985年に朝日新聞に入り、2001年から03年までモスクワ支局員、07年から09年まではローマ支局長をつとめ、12年から5年間はウィーン支局、17年から22年までは再びモスクワ支局勤務と、主に国際報道畑を歩いてきた。

 現地に駐在する特派員になったのは今世紀に入ってからだが、大きな節目だと実感したのは入社5年目、1989年に起きた東西冷戦の終結だった。

 冷戦の象徴だったベルリンの壁が11月に崩壊、翌12月には地中海・マルタでおこなわれた米ソ首脳会談で冷戦終結が宣言された。91年には社会主義陣営の盟主・ソ連が消滅。日本でも国際ニュースへの関心は高く、社会部記者だった私も、90年代はじめから海外、特に紛争地で取材することが増えた。

難民キャンプで聞いた女性の言葉

 初めての海外出張は中東ヨルダンだった。91年2月、湾岸戦争のさなか、首都アンマンで見たパレスチナ難民キャンプの風景は、今も記憶に刻まれている。

 それまで、難民キャンプという言葉には、何となく白いテント群を思い浮かべていた。だが、年々建て増しされたと思われる古いコンクリートの建物の列、狭い路地に並ぶ小さな商店の光景に、そうしたイメージは吹き飛ばされた。そこは、イスラエル建国の48年に起きた第1次中東戦争以来、避難してきた人々が帰郷の展望が開けないまま代を重ねて住み続ける「街」そのものだった。

 飛び込んだ商店の店主と身ぶり手ぶりでやりとりした末、英語教師の女性を紹介された。23歳、表情に幼さを残す彼女はキャンプで生まれた。隣国イラクのサダム・フセイン大統領の名をあげて、「私たちがサダムを支持するのは、傷つけられた歴史があるからだ」と語った。

 前年90年の8月、イラクは隣国のクウェートに侵攻し、併合を宣言した。国連安全保障理事会では米ソが団結し、イラクが撤退しなければ武力行使も可能、とする決議が採択された。フセイン氏は応じず、年が明けた1月17日、米国を中心とする多国籍軍の攻撃が始まった。私がヨルダンに入ったのは、そこがイラク入りを狙う各国記者たちの取材拠点であり、イラクからの避難民の主要な脱出先でもあったからだ。

 当時、米国から「国際貢献」を求められた日本では、自衛隊の海外派遣の是非をめぐって世論が二分していた。メディアは、米軍が提供する標的爆破やミサイル攻撃の映像を多用し、「戦争を美しく見せている」と批判されていた。しかし、イラクは記者に取材ビザを発行せず、現場取材は難航した。東京のデスクらは何とか戦争の現実を伝えようと、私がヨルダンから「平和を望む庶民」の記事を送ることを望んでいたのだと思う。

 だが、街に満ちていたのは、フセイン氏の勝利を望む声だった。イラクがイスラエルにスカッドミサイルを撃ちこみ、イスラエルによるパレスチナ占領を放置する安保理の「2重基準」を突いたからだ。ヨルダンの人口の3分の2はパレスチナ系だった。

冷戦終結で新しい時代に向けて進む世界

 本来、イラクのクウェート侵攻とパレスチナ問題に直接の関係はない。しかし、忘れられた自分たちに世界の注目を集めさせたフセイン氏への、パレスチナ難民らの支持は熱狂的だった。アンマンの米国大使館には連日、多国籍軍への大規模な抗議デモが押し寄せた。

 パレスチナの人の考えは分かったけど、ほかの考えの人はいないの?――

 東京のデスクとのやりとりで…

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この記事を書いた人
喜田尚
国際報道部
専門・関心分野
欧州、旧ソ連地域、民主主義、難民問題など人間の安全保障