「野戦美容室」から転々…たどり着いた仮設店舗に置いた「赤いイス」

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上田真由美
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 まちの風景が、急速に変わっている。

 昨年元日の能登半島地震で津波被害もあった石川県珠洲市宝立町(ほうりゅうまち)。

 道路からマンホールが人の背の高さほどに突き出し、倒壊した家屋が折り重なるように道路にせり出していた。夏になっても、秋になっても。

 それが、冬に近づくころから公費解体が急速に進んだ。いまは更地の中に、なんとか持ちこたえた家屋が、ぽつりぽつりと立っている。

 すっかり見通しのよくなってしまったこのまちの角地に、見慣れないプレハブ小屋がある。

 入り口に据え付けられた看板は、開いたり閉じたりする電光掲示のハサミの下に、「KITAZAWA」の文字。中をのぞくと、白い壁が真新しい美容室だった。

 「4回場所を移って、ここに戻ってきました」。北沢美容室の美容師、岸田孝子さん(53)は言う。

 もともとはこの場所に、岸田さんの実家兼美容室があった。

 昨年の元日、激しい揺れで2階が崩れ落ち、1階がつぶれた。岸田さんは休業日で金沢市に出かけていた。実家にいた両親は崩れた建物の隙間にいて、無事だった。

 両親の無事を確認できた後、岸田さんがまず案じたのは、9着の振り袖だった。6日後に予定されていた珠洲市の「二十歳のつどい」の着付けのために、店舗で預かっていたものだ。

 晴れ着を身につけるはずだったのは、小さいころからよく知る近所の子たち。二十歳を迎えるにあたり、半年ほど前から何度も打ち合わせを重ね、髪形や帯の結び方を決め、あとは当日の着付けを待つばかりだった。

 母親が着たものを引き継ぐ「ママ振(ふり)」。年子の姉妹のために祖母があつらえたもの。本人たちがじっくり選んだレンタルも。それぞれの思いがこもった大切な振り袖を預かっておきながら、倒壊により、取り出せなくなった。責任を感じた。

 それでも、力になってくれる人たちがいた。

 被災地入りした技術系のボランティアたちが事情を知ると、倒壊した美容室のがれきに潜り込み、何日もかけて振り袖9着すべてを救い出してくれた。滋賀県での修業時代の仲間たちは、ハサミやバリカン、カットクロスなどを贈ってくれた。

ブルーシートで「野戦美容室」

 岸田さん自身も動き出す。

 断水が続く1月末、2軒隣の…

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この記事を書いた人
上田真由美
金沢総局|能登駐在
専門・関心分野
民主主義、人口減少、日記など市井の記録を残す営み
能登半島地震(2024年)

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