1977年山梨県生まれ。上智大卒。2001年朝日新聞入社。長崎、岩国、西部報道センター(福岡)、東京社会部で勤務。沖縄は2度目の赴任で、20年4月から23年1月まで那覇総局長。14年から毎夏希望者に無料配布しているタブロイド版「知る沖縄戦」の企画・執筆を担当。著書に「知る沖縄」。
辺野古の埋め立てのための土砂を運ぶダンプカーの運転手は何を思うのか。貴重な証言です。仕事納めの翌28日には新たな「着手」がありました。想定外の軟弱地盤が見つかり、政府が「代執行」という前例なき手段で、沖縄県知事の権限を奪って承認した地盤改良
急速に関心が失われ、揺り戻す気配さえない現状に危機感を覚えています。「辺野古」を巡るこの1年を振り返ったときの実感です。現状を俯瞰すれば、普天間返還の日米合意の目的のうち、最も強調された「沖縄の基地負担軽減」は見えない一方で、もう一つの(あ
この事件は、観光旅行で訪れた沖縄でだれもが遭遇するかも知れない問題です。同時に、こうした理不尽さに遭遇する確率が極めて高いのが、基地が集中する沖縄の現実です。しかし、被害者になったときアクセスする防衛省のサイトは、仕組みが複雑でにわかに理解
PFASを巡っては環境省が水道水の基準を厳格化する方針など、国内でも対策が進みつつあります。米軍基地が絡むものについても、横田基地でのこのニュースで「進展」という印象を受けますが、米軍基地から派生するPFASの環境汚染の疑いについては、根本
今回のような集会は、事件が起きてただ抗議集会があった、というようなものではありません。短く素早く伝える日々の記事ではなかなかお届けしきれない、行間や奥行きを、多くの人に考えてほしいと東京でニュースに触れ、感じています。 私が注目したのは
今回焦点となった「SACO見舞金」は、1995年に沖縄で少女が犠牲になった痛ましい事件をきっかけに創設されました。普天間飛行場の全面返還合意もそうですが、沖縄の基地負担軽減策として打ち出された様々な施策が30年近くを経て、住民を救うどころか
中谷防衛相と玉城デニー知事の会談でテーマの一つとなったオスプレイの運用。沖縄ひとつとっても安全保障をめぐる課題が山積のなかにあってあまり注目されていませんが、看過できない事態が起きています。 米軍が今月、米国で起きたトラブルを理由に飛行を
沖縄に海兵隊員が何人いるのかは、公表されていません。そこから9千人を移す計画が動き出しました。まずは100人。残りはいつまでにどこへ移すのか、これもわかりません。移ったとしても、訓練のために戻っていることもあるかもしれません。日米合意から1
日米地位協定のあり方が、国政選挙で今回ほど注目されたことはなかったのではないでしょうか。改定を掲げた石破首相の発言のぶれ、実現へのハードルの高さ(あるいは、米国に提起することによるマイナス面)が強調される傾向があり、具体的な課題の中身に立ち
「行くも地獄、残るも地獄」 これは対馬丸事件を象徴する言葉のひとつです。前の月(1944年7月)には多くの沖縄県民が暮らしていたサイパンが陥落し、次は沖縄への米軍上陸か、との恐怖が現実のものとなっていました。しかし、すでに(1942年10月
沖縄のある知人は幼いころ「小学校の校庭に幽霊がでる」という噂が怖くてたまらなかったといいます。時が経ち、自身が生まれる2年前の1959年、その小学校に米軍機が墜落し、校庭で子どもが亡くなっていたことを知りました。知人はその後、沖縄国際大に就
沖縄に最初に赴任したのは、事故から3年半後のことでした。 まもなく普天間周辺をルポし、また、事故から4年の集会を取材する機会がありました。 「米軍機の音は、車の音と同じような当たり前のものと思っていましたが、いまはその音が聞こえるたびに洗濯
嘉手納基地のトップの言葉は「深い懸念」「心配かけていることを遺憾」であり、謝罪はありませんでした。起訴から3カ月経ってからの対応については言及がなかったそうです。起訴は3月27日。思い浮かべてしまうのは、5月17日にあったエマニュエル駐日米
6月23日も、その前も後も。 沖縄慰霊の日の取材に長くかかわってきましたが、この日をめぐる沖縄の人たちの営みを、全国の人たちに伝えるのは本当に難しく感じてきました。たとえば、慰霊の日当日だけでも、県知事や首相が出席する追悼式や「平和の礎」
Anlyさんを知ったのは4年ほど前。ループペダルを駆使したパフォーマンスに、ただただ、かっこいい! その後、伊江島の子どもたちと一緒に曲をつくり歌う姿を沖縄のローカルテレビで拝見しました。このインタビューは、全国の中高生くらいに向けて「沖縄
沖縄県議選の結果をめぐって様々に議論が起きていますが、大切だと思う視点を一つ、お伝えしてみます。沖縄で「政権交代」が起こったとして、日本社会が「沖縄」と向き合わなければならない状況に何ら変わりはない、という話です。 米軍基地の問題をめぐっ
仲井真弘多知事(2006-2014)のもと、県政与党が少数に転じたのは、初めて沖縄に赴任した2カ月後のことでした。直後はその重みを十分には理解出来ていなかったのですが、その後、仲井真氏が厳しい県政運営を強いられ、翌年の政権交代とも相まって、
高齢者の生活困窮はもとより、子どもの貧困、低所得や高失業率など、当たり前の日常を送るための重要な課題が、日本全国と同様、沖縄にもあります。ただ、沖縄では全国に比べ、深刻な状態にあります。 米軍人をトップとする米国施政権下に埋め込まれたもの
4月28日という日付の意味を知ったのは、初めて沖縄で生活していたころ。背筋が伸びる思いをするようになったのは10年ほど前。胸の痛みを覚えるようになったのは、8年前からのことです。1952年4月28日、サンフランシスコ講和条約が発効し、戦後日
小学六年の頃、映画「ぼくらの七日間戦争」を映画館で観て、いてもたってもいられない気持ちになったことをはっきりと覚えています。いま思えば〈何か大切なものにふれたんじゃないか、ぼくは〉といったような。それまでまったく読書の習慣が身につくどころか