佐々陽太朗の日記

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『恋文の技術 (新版)』(森見登美彦:著/ポプラ文庫)

2025/01/07

『恋文の技術 (新版)』(森見登美彦:著/ポプラ文庫)を読んだ。

 まずは出版社の紹介文を引く。

京都から遠く離れた能登の実験所に飛ばされた大学院生・守田一郎。
文通修行と称して京都の仲間や家族、
家庭教師先の少年、作家の森見登美彦らに手紙を書きまくるのだが、
本当に想いを伝えたい相手には書けなくて――。
ヘタレ男子の純情が炸裂する、森見節満載の書簡体小説
長らく愛されてきた傑作が、
「新版あとがき 読者の皆様」を加えて新版として登場!

※高松美咲さん描きおろし全面帯、
書き下ろし短編「我が文通修行時代の思い出」収録の初版限定小冊子は、
在庫がなくなり次第終了しますので、ご了承ください。

 

 

 

 まさに諧謔の嵐。機知なのか頓智なのか戯れ言なのか、正体不明、意味がありそうで無い、それでいて隠しようのない情念がビンビン感じられる言葉が雨あられと目から脳へ侵攻してくる。そう、森見氏の紡ぐ言葉はまるで魔法の呪文のごとく私を絡め捕って離さない。何なのだ、この中毒性は。最初の書簡を読み始めたが最後、文通武者修行と称して延々と綴られた優に百通を超える手紙をむさぼるように読むことになろうとは。「おっぱい」という言葉を何度も何度も数え切れないほど読まされてしまったぞ。馬鹿馬鹿しさも茲に極まれり。ちなみに私は十数年前にこの『恋文の技術』を一度読んでいるのだ。水ぼうそうおたふく風邪、はしか、風疹、猩紅熱といった禍々しい病原体ですら、一度かかってしまえば二度はかからないというのに、森見氏の言葉は私の脳をまたしても冒してしまった。感染症の多くは一度罹れば二度目は軽く済むというが、なんとその症状はかつてのものより重篤である。不条理ともいえる中毒性を森見氏の文章は持つ。要注意である。

 さてその手紙の書き手、主人公たる守田一郎は京都の大学から能登半島の付け根にある人里離れた実験所へ送り込まれた大学院生。大学は聢と書いてはないが京都大学と考えて間違いなかろう。例によって森見氏お得意のクサレ学生ものである。京都大学の院生なので秀才であろう。しかし秀才であるからと言って、如才ない男とはかぎらない。頭脳は明晰だが、現実世界を生き抜くにはいささか実戦不足。他にとりたてて特徴なく、容姿も十人並み。世の乙女の多くが憧れるであろう男とはほど遠い男、愛すべきダメ男、それが守田一郎である。

 そんな男、守田一郎が遠く流された能登から寂しさのあまり、京都にいる大学研究室の友人、先輩、嘗て家庭教師をしていた少年、妹などに繁く手紙を送る。しかし思ひ人である伊吹さんへの恋文だけは、書こうとしても書けないでいる。語るに落ちるとはこのことか。友人知人への手紙では、友人の恋が成就したことへの嫉妬や、伊吹さんへの恋情を包み隠すことができない。ダメ男が恋に落ちるということがいったいどのようなことなのかを、これほど破廉恥かつ赤裸々に表した文があるだろうか。

 恋文とは相手を落とすための文である。既に恋に落ち、相手より高みに立つことなど出来ようもない男に、相手を落とす文など書けようか。もし奇蹟が起こるとすれば、相手が落ちるのではなく、降りてきてくれるのではなかろうか。それは愛というより慈悲であろう。極論すれば男女の性を超えた菩薩の愛である。

 では恋に落ちてしまった男が、有意な恋文を書くことは不可能なのであろうか。それでも相手に恋文を書くとすればいったいどのような手段があるか。それは「● ● ● ● ● ● ● しないこと」。さて「● ● ● ● ● ● ● 」にはいる言葉はなにか。それをここで書くわけにはいかない。念のために言って置くが「● ● ● ● ● ● ● 」は「おっぱいを想像」ではない。

 これを名作といってよいかどうか、些かためらいがあるが、他に例を見ない快作といって良いだろう。

 ちなみに15周年記念の初版本には高松美咲さん描きおろし全面帯、書き下ろし短編「我が文通修行時代の思い出」の小冊子がついている。初版限定なので在庫がなくなり次第終了するらしい。この短編がまたクスッと笑わせてくれる。モリミーファンにとってはたまらないアイテムだろう。



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