慶応3年に高杉晋作は死去しますが、
その遺骸は遺言により吉田に葬られます。
危篤に際して妾のおうのは遠ざけられ、
臨終や葬儀にも立ち会ってはおらず、
路頭に迷っていたとされていますが、
これを知った山形有朋や伊藤博文は、
おうのを出家させて墓守となる様指示。
山縣の草庵無鄰菴を贈りました。
※おうのの出家に関しては、
山縣や伊藤が無理やり髪を切ったとか、
騙されて墓守をさせられた等、
心無い説がネット等で出回っていますが、
これは間違いです。
これについてはこちら→谷梅処
おうのは谷梅処を名乗って墓守となり、
約40年もの間晋作の墓守を続け、
67歳の生涯を終えました。
「當庵二世法壽梅仙尼和尚(右)」、
「當庵三世中興春林玉仙大和尚(左)」。
東行庵2世庵主谷梅仙の墓と、
3世庵主谷玉仙の墓。
2世庵主梅仙は大分県宇佐郡に、
末広コスギとして生まれ、
一ノ宮の福王寺で修行していたようで、
梅処より入庵を勧められて、
二世庵主となったとされます。
入庵の8ヶ月後に梅処は死去しており、
2年後の高杉晋作顕彰碑除幕式に、
顕彰碑受け入れ側の庵主として出席し、
最初にして最大のイベントを迎えました。
梅仙も東行庵を守り続けて81歳で死去。
三世玉仙は末成チカとして生まれますが
早くに両親を亡くして梅仙の養子となり、
14歳で新潟の尼僧学林を経て、
駒沢大学専門部仏教科に入学し、
最優秀の成績で卒業したとされます。
玉仙は吉田緑保育園を設立し、
園長として保育園を経営。
奇兵隊及び諸隊士慰霊墓地を開き、
全国各地から隊士の墓を改葬しました。
また東行庵の周辺に多くの花木を植え、
現在のような美しい庭園を整備。
その行動力は[晋作の生まれ変わり]と呼ばれ、
東行庵の中興と称されています。
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