韓国で初めて日本語の歌、でも「日韓の架け橋」と呼ばれたくなかった
国立ハンセン病療養所「大島青松園」(高松市)で20年以上コンサートを続ける歌手の沢知恵(ともえ)さん(52)には、「日韓の架け橋」という顔もある。一方で、この言葉をずっと重荷と感じていたという。人生の転機となった韓国でのコンサートから25年になるのを機に、岡山市の自宅で思いを聞いた。
――1998年10月、日本国籍の歌手として初めて、韓国の公式の場で日本語の歌を歌い、「時の人」となりました。光州で開かれた日韓交流コンサートでの出来事でした
「わたしのこころは湖水です/どうぞ漕(こ)いでお出(い)でなさい」。代表曲「こころ」を日本語の歌詞で歌うと会場に心地よい緊張が走り、湖水に水紋が広がるように歌が染み渡りました。あの日の記憶は鮮明です。
日本の植民地支配を受けた韓国では、戦後50年が過ぎても、公式の場で日本語の歌を歌うことが禁じられていました。世界中のどの言語の歌も許されるのに、日本語の歌だけはだめだったのです。韓国政府が一転して許可したのは、良好だった日韓関係を背景に、当時の金大中(キムデジュン)大統領が日本大衆文化の「開放」に踏み切ったことがありました。
続いて「うさぎ追いしかの山/小鮒(こぶな)つりしかの川」で始まる「故郷(ふるさと)」を歌うと、客席から歌声が聞こえてきました。植民地下で日本語を押しつけられた韓国の高齢者が、自然な形で一緒に歌ってくださったのです。熱いものを感じ、視界が涙でにじみました。
歌手の沢知恵さんは「日韓の架け橋」と呼ばれることが苦手だったといいます。その理由や、現在の思いを伺いました。
だんだんと生じた違和感
――その後、日韓を頻繁に行き来しました
私は日本人の父と韓国人の母…
- 【視点】
日韓の架け橋。 数年前、ある会合で会った韓国で授業を持つ日本人研究者がこんなことを言っていた。 「日本に興味を持つ韓国人学生も、日本からわざわざ韓国へやってきた留学生も、異口同音に皆、『架け橋になりたい』と言う」 「それで私はい
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