障害者は「国民」に含まれない?パラ選手が感じていた隔たりと違和感

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藤野隆晃
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「練習」が「訓練」と呼ばれた時代

 「パラスポーツ」と「スポーツ」の間には、かつて大きな隔たりがあった。

 日本パラリンピック委員会の委員長を務める河合純一(49)が、17歳の頃のことだ。

 1992年のバルセロナ・パラリンピックに初出場した。14歳の岩崎恭子がオリンピック(五輪)の金メダルに輝いた1カ月後、同じ競泳会場で河合は50メートル自由形と100メートル自由形の銀メダルを手にした。

 帰国後、厚生省(現・厚生労働省)に招かれ表彰を受けた。表彰名は「自立更生者表彰」といった。

 会場で読み上げられた受賞理由では、「練習」は「訓練」に、「トレーニング」は「リハビリ」と説明された。

 「もやもや感があった」

 けがを負った兵士たちのリハビリとしてはじまったパラスポーツは、日本で長らく福祉の一環として捉えられていた。

 スポーツ行政は文部省(現・文部科学省)が担っていたが、パラスポーツは厚生省が担当していた。

 スポーツは障害者が社会に参加するための一手段。参加することに意義があり、そこで結果を残せば「自立した」と考えられていた。

福祉の一環として厚生労働省が管轄していたパラスポーツが、スポーツ行政を担う文部科学省に移管されて今年で10年。トップ選の練習環境は様変わりしました。一方、全体を見渡すと課題も残っています。

 パラ選手たちの認識は違った…

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この記事を書いた人
藤野隆晃
スポーツ部
専門・関心分野
スポーツ、ジェンダー