第7回「感動の物語」への免疫乏しかった社会 特攻の記憶から考える教訓

有料記事

聞き手・関口佳代子
[PR]

 太平洋戦争終盤の1944年、日本軍の「神風特別攻撃隊」がフィリピンのレイテ沖で米艦隊に体当たり作戦を始めた。以降、軍は特別攻撃(特攻)を拡大し、新聞やラジオは特攻隊員たちをたたえ、やがて「一億特攻」は国家のスローガンとなっていく。

 なぜ日本は、国を挙げて「特攻」に突き進んだのか。近現代史研究家の辻田真佐憲さんは、キーワードに「感情の動員」を挙げる。

 ――なぜ日本軍は特攻を始めたのでしょうか。

 44年後半、日本軍は物量ではもう米国に勝てないとわかっていました。けれども軍人は、どんな状況でも「勝てる案」を出さなきゃいけない。物量が無いなら、精神力で相手を恐怖させるしかない。頭がおかしいように見えても、当時の軍隊にとっては「合理的」な結論とも言えるのです。

 ――特攻の戦果は、大々的に報道されました。

「美しい物語」批判しにくく

 特攻を「宣伝」に使おうという意図は、当初からありました。若い人が命を捧げて、自分から志願して国のために特攻した、とする物語は、プロパガンダとして使いやすい。

 だから、特攻の発表は特別扱いされました。当時の新聞を見ると、戦果に比べて記事が大きい。隊員の写真も多く使われました。基地から直接出撃するから、りりしい姿の写真が撮れる。日本兵の死者の多くが餓死でしたが、餓死はプロパガンダになりません。

 個人にフォーカスした発表も特徴です。顔写真、個人名や遺書が公開され、読む人は感情移入してしまう。

 ――44年11月1日付の朝日新聞を見ると、大本営発表は「空母3隻を撃沈」とあります。

 「大戦果」ですよね。このこ…

この記事は有料記事です。残り1293文字有料会員になると続きをお読みいただけます。

※無料期間中に解約した場合、料金はかかりません

  • commentatorHeader
    杉田菜穂
    (俳人・大阪公立大学教授=社会政策)
    2024年12月13日14時47分 投稿
    【視点】

    「表面の物語だけを見るのではなく、なぜ若い人たちが特攻に向かわされたのか、背景を掘り下げて考えることも大切です」と。 調査研究のために戦時期の文献資料を探していると、感情に訴えるイラストや標語などによって戦意高揚を図ったり、国策宣伝をした

    …続きを読む
戦後80年

戦後80年

第2次世界大戦では、日本人だけでも300万人以上が犠牲になったと言われています。戦後80年となる今年、あの時代を振り返る意義とは何か。全国各地のニュースをまとめています。[もっと見る]