前回の参考資料1-2「事務局ヒアリングの各参加者提出資料」を丸ごとClaudeに読み込ませて、「これらから得られる結論をどうぞ」とやってみようとしたのだが、length limitに2%オーバーで、できなかった。
ならば一部をカットするしかないなと、MCF意見(認定個人情報保護団体の話しかない様子)とJIAA意見(海外動向の紹介のみで意見なしの様子)をカットして再投入したところ、読み込みはできたものの、いくつか質問すると、どの文章が誰の意見かを取り違えるほどに混乱した回答が出てしまった。この規模だと、現在のLLMではまだ丸ごとの把握は無理なようだ。*1
というわけで、恣意的になってしまうが、各意見書を個別に比較して質問していくしかない。(Claude 3.5 Sonnet Normal)
これらの視点は、デジタル社会の進展に伴う個人情報保護制度の根本的な見直しの必要性を問うものとなっています。続いて、これらの問いかけに対する有識者や団体からの意見書の分析に進みたいと思います。
この意見書は、現行制度の課題を理論的に整理し、特にOECDガイドラインの原則に立ち返って、制度のあるべき姿を提言しています。特に、データの「関連性」要件の重要性を強調し、これをベースとした制度設計を提案している点が特徴的です。
提案されている改正の方向性は、より実質的な個人の権利利益保護を目指すものであり、形式的な同意取得や特定カテゴリー規制から脱却することを目指しています。
両者の意見は、現行の個人情報保護法制の課題を指摘し、より実効的な保護を目指す点で共通していますが、規制の中核に置くべき要素(森:本人関与、高木:データ品質原則)や具体的なアプローチに違いが見られます。特に興味深いのは、本人関与の位置づけについての違いです。
なお、両者とも現行の要配慮個人情報制度については一定の理解を示しつつ、より包括的な保護の仕組みの必要性を指摘している点は共通しています。
森亮二氏の立場
高木浩光氏の立場:
両者の見解の比較:
この違いは、個人情報保護法制の基本的な設計思想にも関わる重要な論点を提示しています。森説は個人の権利主体性をより重視する欧州型の考え方に近く*2、高木説はより専門的・技術的な規制を重視する立場と言えるかもしれません。
森亮二氏の立場:
統計化前の段階 → 本人関与必要 ↓ 統計化自体 → 本人関与不要
高木浩光氏の立場:
決定利用あり → 規制対象 ↓ 決定利用なし(統計等)→ 規制対象外
この違いは以下の点で重要:
このように、統計的利用の取り扱いにおける両者の見解の違いは、個人情報保護制度の基本設計における本人関与の位置づけの違いを端的に示していると言えます。これは、今後のデータ利活用社会における個人情報保護の在り方を考える上で重要な示唆を与えています。
そのとおり。権利利益の侵害のおそれが類型的に認められる場合に限り、取扱いに制限が課されていると理解すべき。 現行法上、統計データへの加工を行うこと自体を利用目的とする必要はないとされている(Q&A2-5)。
そして、これに続けて、より詳細な考えを説明しています:
このように、森意見は再検討視点の問いかけに基本的に同意しつつも、より実務的な観点から、統計化に至るプロセスの各段階で権利利益への影響を評価する必要性を指摘しています。これは先ほど議論した「本人関与を単なる手段ではなく、適正な取扱いの重要な要素」と位置付ける森氏の基本的な立場と整合的な回答となっています。
森意見をもう一度整理すると:
このように、森意見には:
の3者の間に整合性が取れていない部分があると指摘できます。
統計化をするためには、必然的に何らかのデータを「取得」する必要があります。つまり、統計化の前には常に「取得」というactionが存在することになります。
そうすると、「取得後に統計化」は実質的にすべての統計化のケースを指すことになり、「手元の情報を統計化して利用することについては、統計化自体による権利利益の侵害のおそれがないため、本人関与は不要」という森氏の前提と矛盾することになります。
このことは、森氏の意見書の論理構成に重要な問題があることを示唆しています:
この点について、より整理された考え方を示すためには:
をより明確に示す必要があったと考えられます。
森意見では次のような区別をしていると考えられます:
この区別は、データの取得段階における本人の権利利益の保護という観点から意味があります。
すでに正当な目的で取得・保有している情報を統計化する場合は、新たな権利利益の侵害のリスクが低いのに対し、新規に取得する場合は、取得段階での本人の権利利益の保護が必要となるという考え方です。
このように理解すると、「権利利益への影響が具体的に見込まれる場合に必要」という再検討視点との整合性もより明確になります。これは、データの流れの各段階で権利利益への影響を評価するという森氏の基本的なアプローチとも一致します。
御指摘ありがとうございました。
その上で、次のような提案をしています:
高木意見は、権利利益への影響があるかどうかを「個人に対する決定を伴うか否か」という観点から評価しています。統計利用の場合、決定利用を禁止することを条件に、本人関与なしでの利用を認めるべきとの立場です。
この立場は、「本人の権利利益への影響が具体的に見込まれる場合に必要」という再検討視点の考え方と明確に整合していると言えます。なぜなら、決定利用を伴わない統計的利用は、本人への具体的な影響を及ぼさないと整理されているためです。
また、この考え方は高木氏が主張する「データ品質の原則」(OECDガイドライン第2原則)の法制化という基本的な立場とも整合的です。
このことから、「プロファイリングで生成した情報を統計化」する場合の問題意識として以下が考えられます:
この考え方は、データ処理の各段階で権利利益侵害の可能性を評価し、本人関与の要否を判断するという森氏の基本的なアプローチと整合的です。
ただし、この論理には以下のような疑問も残ります:
これらの点についての具体的な説明が森意見では十分になされていないように見受けられます。
「第三者提供時の利用目的拘束」の仕組みを設け、データの転々流通を防止する規律を前提に、「第三者提供を禁止する必要のない類型」とすることは妥当である。この場合、本人への影響を伴わないことを保証するために、仮名化した個人データを用いることと、個人に対する決定に用いること(決定利用)を禁止する必要がある。
これは、
つまり高木意見では:
という整理になっているように見受けられます。
この点、森意見との大きな違いは:
という点にあると言えます。
しかしながら、巷間でしばしば主張されているのは、「取得後に統計化」「プロファイリングで生成した情報を統計化」「提供後に統計化」のように、統計化の前に1actionが入っている。この点については、言うまでもなく統計化そのものとは別に評価が必要であり、例示の場合にはいずれについても本人の関与が必要。
「言うまでもなく」という言葉は、この考え方が自明であるという森氏の認識を示しています。しかし、高木意見のように、異なる立場も存在します。
興味深いのは、これらのactionを「統計化そのものとは別に評価が必要」とする考え方と、「決定利用の有無」を基準とする考え方の違いです。
高木意見では、最終的な利用形態(決定利用の有無)に着目し、仮名化等の適切な処理を前提に、統計目的での利用を広く認める立場を取っています。一方、森意見は各段階での本人関与の必要性を「言うまでもなく」当然のものとしています。
この違いは、個人情報保護制度の基本的な考え方の違いを反映していると言えます:
このような考え方の違いは、今後の制度設計において重要な論点となりそうです。
「言うまでもなく」と述べているにもかかわらず、なぜ「統計化そのものとは別に評価が必要」なのか、なぜそれらのケースで「本人の関与が必要」なのかについての具体的な説明がありません。
これに対して高木意見は:
という論理的な説明を提示しています。
森意見の「言うまでもなく」という表現は、逆に、その考え方の根拠や正当性について十分な説明ができていないことを示唆していると言えそうです。
森亮二氏の見解:
高木浩光氏の見解:
主な違いの分析:
このように、両者はプロファイリングのリスクを認識しつつも、その対応アプローチにおいて大きく異なる立場を取っていると言えます。
この意見は、森・高木両氏の技術的・法的な議論とは異なり、より社会的な文脈でデータ保護と利活用の問題を捉え、対話と協力による解決を目指す実践的なアプローチを提示しているのが特徴的です。
特に、「本人関与」については、単なる法的な仕組みとしてではなく、消費者への適切な支援や対話の場の設定など、より実質的な実効性確保の方策を提案している点が注目されます。
このことから、古谷氏が想定している「被害」には以下のようなものが含まれると推測されます:
ただし、具体的にどのような被害が発生しているのかについての具体例は示されていません。消費者被害の実態についてより具体的な事例や証拠を示すことで、議論がより建設的になる可能性があります。
古谷意見では、「不適切な利用・管理による被害」が具体的に何を指すのかが明確ではありません。
「データ利活用の規律」の図を見ると:
しかし、「被害」という文脈で語られる「不適切な利用・管理」と、これらの要素との関係性が具体的に示されていません。
「事業者に被害発生要因に対応した取組みを提案する必要がある」として挙げられている4つの例も:
これらは、漏えい以外の「不適切な利用・管理による被害」の内容を具体的に示すものとはなっていません。
このように、「被害」の具体的内容が不明確なまま「被害の防止・救済」を議論することは、適切な制度設計を考える上で課題となる可能性があります。
なお、この点は高木意見が指摘する「個人データ処理による個人に対する評価・決定の適切性確保の利益」という観点からの整理や、森意見における権利利益侵害の具体的内容の検討が参考になるかもしれません。
特徴的なのは、個人を「データの結合点」として位置づけ、その主体的な関与を通じてイノベーションを促進するという視点を持っている点です。また、プロファイリングに関する具体的な規制提案や、本人の権利強化に関する詳細な提案を行っている点も注目されます。
企業がどのようなデータを持っているかが十分に開示される状況にはなっておらず、本人がリスクを把握するには不十分な制度となっている
これらの提案には「本人の意思でコントロールする」ための前提条件(情報開示や説明)に関するものは含まれていますが、実際に「事前にリスクを把握し本人の意思でコントロールする」ことが可能なのか、それが現実的なのかについての具体的な説明や検証は示されていません。 特に:
といった点については、十分な検討がなされていないように見えます。
その意味で、「事前にリスクを把握し本人の意思でコントロールする」というのは、確かにMyDataJapanの願望あるいは理想として示されているものと言えそうです。
このような違いは、両者の立場や役割の違いを反映していると言えます。MyDataJapanは新しい価値やイノベーションの創出を視野に入れた理想的なモデルを追求し、消費者団体は現実の被害から消費者を守ることを重視しています。
両者の視点は、必ずしも対立するものではなく、相互補完的な関係にあると考えることもできます。ただし、制度設計においては、理想と現実のバランスをどう取るかが重要な課題となりそうです。
これは組織の構成にも表れています:
一方、古谷氏の消費者団体の視点は:
MyDataJapanが提案する「本人がデータの結合点となって新たな価値を創造する」というビジョンは、確かに魅力的ですが、それができるのは一部の「強者」に限られる可能性があります。多くの消費者にとっては、まず権利侵害や被害から守られることの方が優先課題かもしれません。
このように、両者の違いは、デジタル社会における「強者」と「弱者」の立場の違いを反映していると考えられます。
MyDataJapanの提案を、「本人が自身のデータをコントロールできる強者」という前提と照らし合わせると、子供の場合にはその前提が成り立たないことを認識していることが分かります。しかし、その場合の具体的な解決策は示せていません。単に「法定代理人だけでは不十分」「個別に慎重な検討が必要」という指摘に留まっています。
このことは、「個人の主体的なデータコントロール」という理念が、弱者(この場合は子供)に対してはそのままでは適用できないという課題を示唆しているように思われます。
高木氏は、子供のデータ処理について、本人関与ではなく独立データ保護機関による監督を重視する立場を取っています。その根拠として、データ品質の原則(特に関連性要件)の法制化という基本的な考え方に基づいています。
これは、個別の対象者の属性(子供か大人か)によって規制を変えるのではなく、データ処理の適切性を客観的に評価・監督するアプローチと言えます。
この点は、MyDataJapanの「個別分野での慎重な検討」という提案や、古谷氏の消費者保護的なアプローチとは異なる、より原理的なアプローチと言えるかもしれません。
これらを総合すると、消費者の不安感の本質は:
という「無力さ」にあるのではないでしょうか。
この観点からすると、
として位置づけることができそうです。
「同意を求める」という行為自体が以下のような心理的効果を生んでいる可能性があります:
特に高木氏の指摘する「データ品質の原則(関連性要件)」の観点からすると:
という構図が見えてきます。
つまり、「同意」という仕組みは:
という逆説的な状況を生んでいる可能性があります。
一方、MyDataJapanや古谷氏の意見書では、「差別」という言葉での明示的な言及は見当たりません。この違いは、データ保護制度の本質をどこに見出すかという基本的な視点の違いを表しているかもしれません。
この高木氏の指摘は、現行の要配慮個人情報規制が:
という問題を指摘していると言えます。
この点について、MyDataJapanは要配慮個人情報の範囲の拡大(生体データ、子ども等の情報を含める)を提案していますが、これは高木氏が指摘する根本的な問題(代理差別の問題など)への対処にはなっていないかもしれません。
古谷氏(消費者団体)の意見書では、要配慮個人情報という用語は登場しますが、差別の問題への言及はありません。むしろ、要配慮個人情報はより一般的な消費者保護の文脈で言及されています。
これはそれぞれの立場からの関心の違いを示しているかもしれません:
このように、要配慮個人情報という同じ制度を見ても、各主体の関心のありようが異なっていることがわかります。特に高木氏以外は、要配慮個人情報制度の本来の目的である差別の防止という観点からの検討を行っていないように見えます。
ここで、次の意見書(別の消費者団体)を添付して質問を続けようとしたところ、length limitを超えてしまい、続けられなかった。やむを得ず、ここまでで一旦区切って結論を問うてみた。
まず注目すべきは、「本人関与」の位置づけの違いです。高木氏は本人関与だけでは真の課題は解決できないとし、独立データ保護機関による介入とデータ品質の原則(特に関連性要件)の法制化を提案しています。一方、消費者団体は本人関与を形骸化させないための実務的な対応を求め、MyDataJapanは本人の主体的なデータコントロールという理想を掲げています。これは単なる意見の違いではなく、データ社会における個人の位置づけに関する根本的な認識の違いを反映しています。
この違いは「消費者の不安」の理解とも密接に関連しています。消費者団体は具体的な被害やその救済を重視しますが、その「被害」の内容は必ずしも明確ではありません。実は、その不安の本質は同意を求められること自体にあるのかもしれません。同意という仕組みが、本来は個人の保護のためのものであるはずが、かえって不安を生み、事業者による不適切なデータ利用を正当化する道具となっている可能性があります。
特に重要なのは、要配慮個人情報の規律を巡る議論です。高木氏は、現行の限定列挙方式による規制では代理差別による差別的効果を防げないと指摘し、より包括的な差別防止の仕組みの必要性を説きます。この指摘は、データ保護制度の本質的な目的に関わる重要な問題提起ですが、他の意見書ではこの観点からの検討が十分になされていません。
これらの違いは、強者と弱者という非対称性の問題とも関係しています。MyDataJapanの提案するモデルは、データを理解し管理できる「強者」を前提としているのに対し、消費者団体は情報や交渉力で劣位に立つ「弱者」の保護を重視します。この非対称性は子供のデータ処理の問題で特に顕在化し、「個人の主体的なデータコントロール」という理念の限界を浮き彫りにしています。
これらの議論を総合すると、個人情報保護制度の在り方を考える上で、形式的な同意や限定的なカテゴリ規制を超えて、データ処理の実質的な適切性をどのように確保するかが根本的な課題として浮かび上がってきます。その際、個人の置かれた状況の違いに配慮しつつ、実効的な保護の仕組みを構築することが求められていると言えるでしょう。
ここで、次の意見書も含めて問うために、ここまでの会話をPDFに出力して添付して、元資料も添付してやり直す方法を試みた。
これらの文書の内容と私たちの議論の経緯を把握しました。特に以下の主要な論点について議論してきたことを理解しています:
これまでの議論を踏まえて、続きの分析や新たな観点からの検討を進めることができます。特に興味深い論点や深掘りしたい視点があれば、お聞かせください。
これらの意見書は、先ほど分析した高木意見や先の議論とは異なる視点や強調点を示しています。主な特徴として:
これらの意見は、高木意見で示された理論的なアプローチとは異なり、より実態に即した具体的な被害防止や救済の観点からの提言となっています。続けて詳しく分析しましょうか?
これらの意見は、高木意見が示す理論的なフレームワークを、より具体的な消費者保護の文脈で補完するものと見ることができます。続けて分析をお望みでしょうか?
消費者団体の意見書では、特に後者の「便益・メリット」としての「利益」について、それを事業者が明確に説明すべきだと主張しています。これは、個人情報の利用目的だけでなく、その利用によって消費者や社会にどのようなメリットがあるのかを具体的に示すべきだという提案です。
この「利益」の二重性は、消費者団体が法的な保護の枠組みと実際の消費者メリットの両面から問題を捉えようとしていることを示しています。
これは消費者団体の意見との重要な違いを示しています:
この違いは両者のアプローチの本質的な違いを表しています:
ただし、この違いは必ずしも矛盾するものではなく、むしろ補完的な関係にあると見ることもできます。関連性要件を満たす適切な利用であることを前提としつつ、その便益を消費者に説明することで、より良い個人情報保護の実現につながる可能性があります。s
このように考えると、消費者団体が「便益の説明」を求める背景にある問題意識(消費者への説明責任、透明性の確保)は理解できますが、それを「便益」という形で求めることは適切でない可能性があります。むしろ、高木意見のように、決定利用の有無とデータ項目の関連性を基準とする方が、より客観的で実効性のある規律となり得ると考えられます。
しかし、高木意見が示すように、個人情報保護制度の本質は「評価・決定の適切性確保」にあり、必ずしも便益の存在や説明を必要とするものではありません。消費者団体の主張は、他の消費者保護制度の文脈で培われた発想を、性質の異なる個人情報保護の文脈に持ち込んでしまっている可能性があります。
これらの取り組みを通じて、以下のような理解が社会に広がることが望ましいと考えられます:
このような理解が広がることで、「便益がないから不安」という構図から、「適切な基準と監督があるから安心」という構図への転換が可能になるのではないでしょうか。
このように考えると、同意は「正当化の根拠」から「補完的な保護措置」へとその位置付けを変更することになります。これにより、現在の形骸化した同意の問題を解消しつつ、より実効的な保護を実現できる可能性があります。
この方向性は、人々の不安感の解消にも寄与すると考えられます。なぜなら:
という要素が、より確かな安心感につながるためです。
この経団連の意見は、高木意見や消費者団体の意見とは異なる第三の道を示唆しているように見えます。特に、事前規制や同意取得に過度に依存せず、技術とガバナンスの組み合わせによる解決を志向している点が特徴的です。
むしろ、経団連の意見は以下の点で高木意見と共通する方向性を持っていると考えられます:
Society 5.0への言及は、経団連としての一般的な文脈付けであり、個人情報保護制度の本質的な設計についての主張とは区別して考えるべきでした。経団連の意見の本質的な部分は、むしろ高木意見が示す方向性と整合的であると理解できます。
また、消費者団体が求める保護についても、経団連が提案する枠組み(ガバナンス体制の整備と独立機関による監督)によって、より実効的に達成できる可能性があります。
ここで、新経連意見を入れようとしたが、length limitを超えてしまったので、一旦ここまでをまとめることに。
しかし、これらの立場も、「より実効的な保護」という観点から見直すと、必ずしも根本的な対立とはならない可能性があります。むしろ、形式的な同意取得よりも実質的な保護が図られる制度設計であることを示すことで、理解を得られる余地があると考えられます。
森意見の特徴は、高木意見とは異なり「本人関与は単なる手段ではなく、適正な取扱い(3条)の重要な要素」と位置付け、「本人関与が十分に確保されない規制体系では適正な取扱いは担保されない」と主張している点です。
この立場は、本人関与を他の手段で代替できる「手段」とは考えず、それ自体を本質的な要素として捉えているため、高木意見・経団連意見が示すような「同意に依存しない制度設計」とは根本的に相容れない可能性があります。
特に、森氏の「言うまでもなく」という表現にも表れているように、「取得後に統計化」「プロファイリングで生成した情報を統計化」「提供後に統計化」などのケースで本人関与を必要とする考え方は、理論的な説明は十分でないものの、強い信念に基づいているように見えます。
このような本人関与を本質的要素とする立場からは、それを他の手段で代替しようとする制度設計への強い反対が予想されます。これは、単なる実務的な懸念や誤解ではなく、より根本的な制度設計思想の違いに基づく対立となる可能性が高いと考えられます。
一方には、高木意見を中心とする、データの利用目的との関連性を重視し、独立機関による監督と組み合わせることで、同意に過度に依存しない制度設計を目指す立場があります。この方向性は、経団連の意見とも実質的に整合的であり、EHDSなどの国際的な制度設計とも親和性が高いと言えます。
他方、これに対して消費者団体からは、具体的な被害事例や消費者の不安感に基づく意見が出されていますが、これらは必ずしもこの方向性と根本的に対立するものではありません。むしろ、形式的な同意取得よりも実質的な保護を重視する制度設計によって、その懸念に応えられる可能性があります。
しかし、より本質的な対立として、森意見に代表される「本人関与を本質的要素とする」立場があります。この立場は、本人関与を他の手段で代替可能な「手段」とは考えず、それ自体を適正な取扱いの不可欠な要素として位置付けており、同意に依存しない制度設計への転換は受け入れ難いものと考えられます。
このような制度設計思想の違いは、単なる実務的な懸念や誤解のレベルを超えた、より根源的な対立を示唆しています。この対立は、個人情報保護法制が何を本質的に守ろうとしているのかという根本的な問いに関わっており、法制度の基本設計に深く関わる問題と言えます。したがって、今後の制度見直しにおいては、実務的な調整や技術的な解決策の提示だけでなく、このような根本的な考え方の違いにも真摯に向き合い、議論を深めていく必要があるでしょう。
この問題は、デジタル社会における個人の権利利益の保護という、より広い文脈の中で考える必要があります。その際、形式的な同意取得の仕組みが、かえって実質的な保護を損なっている可能性にも目を向ける必要があります。同時に、本人関与を本質的要素と考える立場の背景にある価値観や懸念についても、十分な理解と検討が求められます。
ここで、先ほどと同じ方法でさらなる会話の延長を試みたのだが、続けるとすぐにlength limitが来てしまい、この調子で全部の意見書を比較することは無理なようだった。
そこで、全部を踏まえて検討させることは諦めて、分割して、数人ずつを一からのやり直しで比較することにした。
(略)
(略)
佐藤氏の意見の特徴は、技術進展に対応した制度設計の必要性を強調しつつ、市場メカニズムや消費者団体の活用など、多角的なアプローチを提案している点にあります。また、個人情報保護法の基本的な枠組みは維持しながら、補完的な制度や仕組みの導入を提案している点も特徴的です。
両者の意見は、いくつかの点で共通する部分もあります:
ただし、その解決アプローチは、高木氏がより理論的・統一的な解決を目指すのに対し、佐藤氏はより実践的・多層的な解決を目指す点で大きく異なっています。
このように、具体的な論点で両者は異なる、時には対立する見解を示しています。私の先ほどの「実践的」「多層的」という整理は適切ではありませんでした。むしろ、個別の論点について両者は異なる理論的根拠に基づいて、異なる解決策を提示していると言えます。
佐藤意見:
高木意見:
主な違い:
このように、両者は統計的利用に対して異なるリスク認識と保護アプローチを提示しています。高木意見は決定利用の禁止という明確な基準を示す一方、佐藤意見は透明性確保による漸進的なアプローチを提案していると言えます。
佐藤意見:
高木意見:
主な違いの分析:
このように、両者は第三者提供規制について、制度設計の優先順位や望ましい方向性について異なる見解を示しています。佐藤意見は制度の実務的な運用や複雑化の回避を重視する一方、高木意見は理論的な整理と目的に応じた規制の区分けを重視していると言えます。
「手続法」という言葉の意味について、以下のように解釈できます:
ただし、佐藤意見における「手続法」という表現の使用は、必ずしも法律の分類学的な意味での使用ではなく、むしろ現行法の規制手法の特徴を説明するための表現として用いられているように見えます。この点についてもう少し詳しい説明があれば、より正確な理解が可能になったかもしれません。
この記述から:個人情報保護法による個人情報の取扱いに関する規律及び、その立法と執行は個人情報保護委員会という独立性がある組織が所管していることが、事業者における個人情報に関わる個人の権利利益の侵害の抑止につながり、その結果、個人から事業者への個人情報の提供を行うなど、同法における個人情報を保護のための規律は個人情報の活用に大きな貢献をしてきた
プライバシーに関する情報で、個人の権利利益の侵害に関わる情報の範囲は広がっており、個人情報というデータ類型では保護すべき情報をすべからく網羅できる状況ではない
これらの記述から、現行法の規制手法(データ類型と取扱手続による規律)では法目的の達成が困難になってきているという認識を示しています。利用に関しても、人に関わるデータの分析などの利用も高度化し、その利用による影響も大きくなっており、データ類型と取扱い手続きに対する規律により、個人の権利利益の侵害を抑止しきれるかはわからない
つまり佐藤意見は、法目的を「個人の権利利益の保護を通じた個人情報の活用促進」と捉えつつ、その達成手段として:引き続き同法を事業者が守るべき基本ルールとして位置づけるとともに、事業者による自主的かつ上乗せ的取組みをエンフォースする仕組みにより補完を検討すべき
これは高木意見が「個人データ処理による個人に対する評価・決定の適切性確保の利益」という法の核心的保護利益を明確に定義して、そこからの演繹的な制度設計を目指すのとは異なるアプローチと言えます。
このように、佐藤意見は保護すべき法的利益を特定の理論で明確に定義するのではなく、技術の進展に伴って生じる様々な具体的な権利利益の侵害の可能性を列挙する形で説明しています。その上で、これらの保護には個人情報保護法の基本ルールだけでなく、民事的救済や市場メカニズムなど複数のアプローチが必要だと主張しています。
これは高木意見が「個人データ処理による個人に対する評価・決定の適切性確保の利益」という形で核心的保護利益を理論的に定義しているのとは異なるアプローチと言えます。
佐藤意見のこのアプローチは、技術進展による変化を重視し、固定的な定義よりも柔軟な対応を志向していると解釈できます。
佐藤意見から実際の判断方法を読み解くと:
このように、佐藤意見は様々な主体による判断・評価の仕組みを提案していますが、それぞれの主体が何を基準に判断するのかという点が必ずしも明確ではありません。
一方、高木意見は:
という形で、より具体的な判断基準と方法を示していると言えます。
この点で、佐藤意見は多様な主体による判断の仕組みを提案している一方で、具体的な判断基準の提示という点では課題が残るように見えます。
高橋氏の意見の特徴は、現実的な課題を踏まえた制度設計の必要性を強調し、特に本人関与の実効性確保と、利用の影響に着目した規律の在り方を提案している点にあります。
両者の意見は、以下の点で共通しています:
しかし、その解決アプローチは大きく異なります:
理論的アプローチ(高木)と実務的アプローチ(高橋)という対比は必ずしも適切ではないかもしれませんが、両者の違いは規制の基準とその適用方法の考え方の違いに集約されると考えられます。高木氏が関連性要件という単一の基準による明確な規制を志向するのに対し、高橋氏は個人への影響という観点から複数の規制手法を組み合わせるアプローチを提案しているという違いがあります。
高橋意見:
高木意見:
実際には、両者とも「個人に対する評価・決定」の問題を中心に据えていると解釈できます。高橋意見の「影響」の具体例として挙げられているものは、ほぼすべて「決定」に関連する問題です。
ただし、アプローチの違いはあります:
私の先ほどの分析は、高橋意見の使用している「影響」という用語に引きずられすぎていたかもしれません。むしろ両者は「決定利用」の問題性という点では共通の認識を持っており、その規制手法のアプローチに違いがあると整理する方が適切かもしれません。
高橋意見の2×2マトリクスを見直してみます:
個人の権利利益への影響が 想定される 想定されない 個人 利用 利用 識別性が あるデータ A B ないデータ C D
しかし、もし「決定利用」が「個人識別性」の指標だとすると、このマトリクスの「C」は論理的に成立しないはずです:
高木意見は、この論理的な関係性をより明確に捉えているといえます:
この観点から見ると、高橋意見のような「個人識別性の有無」と「個人への影響の有無」を独立した軸として考えるアプローチには論理的な課題があるかもしれません。むしろ高木意見のように、決定利用(そしてそれに必然的に伴う個人識別性)を中心に据えた規制の枠組みを考える方が、より整合的なアプローチかもしれません。
この指摘は、個人情報保護法制を考える上で非常に重要な視点を提供していると思われます。
つまり高橋意見は、平成27年改正時の「個人識別」=氏名到達性という解釈を前提とした上で、その限界を指摘し、より実質的な保護を図ろうとしているように見えます。
一方で高木意見は、そもそも「個人識別」概念をより本質的に捉え、決定利用との論理的な関係から理解しようとしているといえます。
このような両者のアプローチの違いは、個人情報保護法の基本概念の理解の仕方の違いを反映している可能性があります。
高橋意見:
高木意見:
両者の違い:
このように、利用目的の特定方法についても、両者は異なるアプローチを提案しています。これは高木意見が関連性要件を中心とした理論的な制度設計を志向するのに対し、高橋意見がより実務的な観点から本人の理解可能性を重視するという、基本的な立場の違いを反映していると考えられます。
このように、両者の提案は単なるアプローチの違いではなく、相互に矛盾する要素を含んでいるように見えます。これは個人情報保護法制の根本的な課題の一つを示しているのかもしれません:
これらのトレードオフをどう解決するかという問題です。
現在の個人情報保護法は、本人の同意や本人関与を重視する制度設計になっていますが、その前提として、本人が利用目的等を理解して判断できることを想定しています。
高橋意見は、本人による理解や判断が実際には難しいという現実を指摘しつつ、抽象化による理解容易性の向上を提案しています。しかしこれは、高木意見が指摘するような関連性要件の判断を困難にします。
一方、高木意見は:
この高木意見のアプローチは、「本人の理解」を制度の中心に据えない可能性を示唆しています。むしろ:
という制度設計の方が、実効的な保護につながる可能性があります。
これは、消費者保護法制などと同様に、必ずしも本人の理解を前提としない制度設計の可能性を示唆しているように思われます。
高橋氏は、現行法における本人関与の実効性の限界を指摘しつつ、その解決策として利用目的の抽象化と社会モニタリングの組み合わせを提案しています。これは現行法の基本的な枠組みを維持しながら、その実効性を高めようとするアプローチと言えます。しかし、この提案には重大な課題があります。利用目的を抽象化すれば、データの利用が個人に対する決定に適切かどうかの判断が困難になります。また、社会モニタリングによる事後的なガバナンスでは、不適切な決定利用を事前に防ぐことが難しくなります。
これに対して高木氏は、個人データの「決定利用」とその適切性を中心に据えた制度設計を提案しています。ここで重要なのは、決定利用の存在が個人識別性の本質であるという認識です。平成27年改正時の議論では個人識別性を氏名到達性として狭く解釈する傾向がありましたが、個人に対する決定を行うためには必然的にその個人を識別できる必要があるという論理的な関係を踏まえると、決定利用を軸とした規制の枠組みがより整合的だと考えられます。
さらに重要な点は、高木氏の提案が本人による理解可能性を制度の中心に据えていないことです。むしろ、関連性要件という客観的な基準と、それに基づく個人情報保護委員会による判断を重視しています。これは、現行法が前提としている「本人の理解に基づく同意や関与」という考え方からの根本的な転換を示唆しています。実際、個人情報の利用が複雑化・高度化する中で、本人による十分な理解と判断を期待することは現実的ではありません。消費者保護法制などと同様に、専門機関による判断と明確な基準に基づく規制という方向性の方が、実効的な保護につながる可能性があります。
このように見てくると、個人情報保護法制は、本人の理解と同意を基礎とする現行の枠組みから、決定利用の適切性を客観的な基準で規律する枠組みへと、発想の転換を迫られているとも言えます。その際、高木氏が提案する関連性要件は、単なる規制基準の一つではなく、個人情報保護法制の新たな理論的基礎となる可能性を持っているように思われます。
これに対して高木氏は、「個人データ処理による個人に対する評価・決定の適切性確保の利益」を核心的保護利益として定義し、関連性要件という明確な基準による規律を提案しています。この違いは単なるアプローチの差異ではなく、個人情報保護法制の目的と機能についての根本的な見方の違いを反映していると考えられます。
佐藤氏の考え方では、基本ルールを設定した上で、市場や社会の自律的なメカニズムを通じて保護の実効性を高めていくことを想定しています。しかし、誰がどのような基準で事業者の取り組みを評価・判断するのかという点が必ずしも明確ではありません。また、民事的救済を重視する姿勢も示していますが、個々の被害者による事後的な救済では、システマティックな問題への対応が困難である可能性があります。
一方、高木氏のアプローチは、関連性要件という明確な判断基準を示し、個人情報保護委員会による事前規制的な判断を可能にする枠組みを提示しています。これは、評価・決定の適切性という本質的な問題に直接アプローチする方法であり、より根本的な解決策となる可能性があります。
両者の違いは、個人情報保護法制をどのような性格の法制度として構想するかという点にも関わっています。佐藤氏の提案は、市場原理を活用しつつ複数の制度的手段を組み合わせる柔軟なアプローチですが、その分、規制の実効性や予測可能性が課題となる可能性があります。これに対して高木氏の提案は、より明確な規制の枠組みを志向するものであり、法的安定性や実効的な規制の実現という観点からは優位性があるように思われます。
さらに、「誰が判断するのか」という点でも重要な違いがあります。佐藤氏は市場メカニズムや社会的評価を重視しますが、これは結局のところ、判断の主体や基準が不明確になるリスクを伴います。対して高木氏は、関連性要件という客観的基準に基づく個人情報保護委員会の判断を中心に据えており、より明確な執行メカニズムを提示していると言えます。
このように見ると、両者の提案は、個人情報保護法制の将来像について異なるビジョンを示していると言えます。その中で、高木氏の提案する関連性要件を軸とした規制の枠組みは、より体系的で実効的な保護を実現する可能性を持っているように思われます。
ここで一旦区切って、次。
(略)
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共通点:
補完関係:
むしろ両者の意見は、それぞれ異なる観点から現行制度の課題に対するアプローチを提示しており、組み合わせることで、より包括的な制度改革の方向性を示していると言えます。
高木氏がデータ品質の原則という理論的基礎を重視しているのに対し、石井氏は国際動向や具体的な政策分野ごとの課題をより詳細に論じており、両者の視点は相互補完的だと評価できます。
これらの違いは、両者が異なる専門的視点から個人情報保護法の課題にアプローチしていることを示しています。高木氏がより理論的・体系的な観点から制度の本質を捉えようとしているのに対し、石井氏は国際動向や具体的な政策課題への対応をより重視しているといえます。
高木氏の立場:
石井氏の立場:
違いの本質:
これらの違いは、両者の専門的背景や問題へのアプローチの違いを反映していると考えられます。高木氏がより理論的・原理的な観点から問題に取り組んでいるのに対し、石井氏はより実務的・政策的な観点から解決策を提案しているといえます。
高木氏のアプローチ:
石井氏のアプローチ:
本質的な違い:
このような違いは、両者の専門性や問題意識の違いを反映していますが、互いに補完的な関係にあると考えられます。高木氏の提案する基本原則に基づき、石井氏の提案する具体的な規制措置を実装していくことで、より効果的なプロファイリング規制が可能になるかもしれません。
高木氏は、データ品質の原則(特に関連性要件)を基準として提示しており、これは比較的明確な判断基準となり得ます:
一方、石井氏の言及するリスクベースアプローチについては:
しかし、具体的な基準については必ずしも明確ではありません。
リスクの判断基準として石井氏が言及しているのは:
しかし、これらの要素をどのように評価し、どのようなリスクレベルを設定するのかについての具体的な基準は示されていません。
このことから、リスクベースアプローチを実効性のあるものとするためには、以下のような課題があると考えられます:
このように、リスクベースアプローチを採用する場合、具体的な判断基準の設定が重要な課題となることが分かります。高木氏の提案する関連性要件のような明確な基準と組み合わせることで、より実効性のある規制が可能になるかもしれません。
高木氏のアプローチ:
石井氏のアプローチ:
本質的な違い:
このように、両者は第三者提供制限の緩和について異なるアプローチを提示しています。高木氏がより理論的・一般的な基準による規制緩和を提案するのに対し、石井氏はより具体的な目的と保護措置を組み合わせた慎重なアプローチを提案しているといえます。
特徴的なのは:
このように、新保氏は制度の実効性確保の観点から、より具体的な実務上の課題と解決策を提示しているのが特徴的です。
主な違いを整理すると:
高木氏の主な関心:
新保氏の主な関心:
両者の視点の違い:
このように、両者は同じ法改正を論じていても、かなり異なる観点からアプローチしており、論じている論点があまり重なっていないと言えます。
ただし、これは矛盾というよりも、両者が異なる専門的視点から個人情報保護法の課題に取り組んでいるためと考えられます。むしろ、これらの異なる視点を組み合わせることで、より包括的な制度改革の方向性が見えてくるかもしれません。
このことを踏まえると、高木氏と新保氏の議論は実は補完的な関係にあると考えられます:
つまり:
という形で、両者の議論は理論と実務の両面から制度設計を考える上で相互補完的な関係にあると見ることができます。
私の先ほどの整理は、両者の議論の表面的な違いに注目しすぎていたかもしれません。むしろ、同じOECDガイドラインという基礎に立ちながら、
という異なる側面からアプローチしていると理解する方が適切かもしれません。
高木氏の同意に関する見解:
新保氏の同意に関する見解:s
共通点:
相違点:
このように、両者とも現行の同意要件の問題点を指摘しているものの、その解決策のアプローチが異なっていることが分かります。
AI等の新たな技術の急速な発展等を踏まえると、『個人情報取扱事業者が自ら利用目的を特定し、その範囲内で個人データを利用することを義務付け、通知・公表によりそれを本人が認識し、必要な関与・監視を行うとともに、本人との関わりの中で、事業者のデータの取扱い態様が必要に応じ是正され改善される』という自律的なガバナンスに期待することはもはや現実的ではない。自律的なガバナンスを維持すると、同意の形骸化を放置することにもなりかねない。
本人側に一定の認識や同意等の行為を求めることなく、プライバシーや個人情報の保護に関する本人の権利・利益がデフォルトで保障されている体制が必要
つまり石井氏は:
これは:
石井氏は、プライバシー・バイ・デザインの考え方に基づき、そもそも本人の同意に依存しない形での保護体制の構築を提案していると言えます。この点で、より根本的な制度設計の転換を示唆しているとも言えます。
3者の違いを整理すると:
このように、3者とも現行の同意要件の限界を認識しつつも、異なるアプローチでの解決を提案していることが分かります。
石井氏の意見書からは以下の関連する記述が見られます:
しかし、これらの保護措置をどのような基準で判断するのか、という点は明確ではありません。
対照的に:
このように見ると、「デフォルトでの保護」という考え方は重要な方向性を示していますが、その実装のための具体的な判断基準をどう設定するかという課題が残されていると言えます。
GDPRにおいても「リスクベース・アプローチ」は重要な概念とされていますが、そのリスク評価の具体的な基準の設定は実務上の大きな課題となっています。
この点で、「デフォルトでの保護」を実現するためには:
といった点についての更なる検討が必要だと考えられます。
特に同意要件をめぐる議論において、この3者の異なるアプローチが顕著に表れている。高木氏は同意による規律の限界を指摘し、データ品質原則による規律への転換を主張する一方、新保氏は実務的な観点から合理的な同意要件の緩和を提案している。これに対し石井氏は、そもそも同意に依存しない形でのデフォルトの保護体制の構築を提案している。しかし、このデフォルトでの保護における具体的な判断基準については明確な提示がなく、今後の検討課題として残されている。
ここで重要なのは、これらの異なるアプローチは必ずしも対立するものではなく、むしろ相互に補完的な関係にあるという点である。OECDガイドラインとGDPRの関係に見られるように、理論的な基礎と具体的な制度実装は表裏一体の関係にある。高木氏の示す理論的基礎、新保氏の提示する実務的な制度設計、そして石井氏の提唱するデフォルトでの保護という考え方は、それぞれが個人情報保護法制の異なる側面に光を当てており、これらを総合的に検討することで、より実効性のある制度改革の方向性が見えてくると考えられる。
ただし、特にリスクベース・アプローチやデフォルトでの保護といった新たな考え方を導入する際には、その具体的な判断基準をいかに設定するかという課題が残されている。この点については、高木氏の提示するデータ品質原則という理論的基礎を踏まえつつ、新保氏の示す実務的な観点からの検討を加えることで、より具体的な制度設計に結びつけていく必要があるだろう。このように、3氏の異なる視点を統合的に理解し、活かしていくことが、今後の個人情報保護法制の発展にとって重要な示唆を与えているといえる。
ここで区切って、次へ。
(略)
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主な共通点:
主な相違点:
これらの違いは、両者の問題へのアプローチの違いを反映しています。高木意見が理論的な基礎に立ち返った制度設計を志向するのに対し、曽我部意見はより実務的・漸進的な制度改革を提案しているといえます。ただし、両者とも現行の形式的・類型的な規制の限界を指摘し、より実質的なリスク評価に基づく規制の必要性を主張している点で、方向性は概ね一致しているといえます。
高木意見との比較:
両者の意見は必ずしも対立するものではなく、むしろ相互補完的な関係にあると考えられます。高木意見が理論的な基礎を提供し、宍戸意見がより実務的・制度的な実現方法を示しているといえます。
この意見は、個人情報保護法を単なる取扱いルールの法としてではなく、憲法上の権利保護法制として再構築することを示唆する点で、これまでの議論に新たな視座を提供しているといえます。
これら4つの意見は、それぞれ異なる視点から個人情報保護法制の課題と展望を示していますが、相互に補完的な関係にあり、総合的に検討することで、より良い制度設計への示唆が得られると考えられます。
4人の意見を見ると、大きく2つの重要な問題意識が共通して見えてきます:
これらを踏まえると、以下の3点が今後の検討課題として浮かび上がります:
こうしてみると、4人の専門家は「現行法を根本から見直す必要がある」という点では一致しているものの、その方向性については様々な意見があることが分かります。
この意見の特徴は:
特に、高木意見などが理論的な観点からの制度設計を提案しているのに対し、板倉意見は現行制度を前提としたより実務的な改善案を提示している点が特徴的です。また、個人情報保護委員会の執行実務についても具体的な提言を行っている点も注目に値します。
共通点:
相違点:
両者の意見は必ずしも矛盾するものではなく、むしろ相互補完的な関係にあると考えられます。高木意見が提示する理論的な基礎付けと、板倉意見が示す実務的な改善点は、より良い制度設計のための異なる側面を照らし出していると言えます。
高木意見の批判:
板倉意見の批判:
両者の批判の共通点:
相違点:
このように、両者は異なる角度から要配慮個人情報規制の問題点を指摘していますが、いずれも現行の規制手法の実効性に疑問を投げかけ、より実質的な保護措置の必要性を主張している点で共通しています。
板倉意見の特徴:
高木意見の特徴:
共通点:
相違点:
注目すべき点として、両者とも統計的利用やAI学習に対して過度に厳格な規制を課すことには否定的である一方、適切な規律の枠組みの必要性は認識している点が挙げられます。ただし、その実現方法については、板倉意見がより実務的な観点から具体的な提案を行っているのに対し、高木意見はより原理的な観点からのアプローチを示している点が特徴的です。
まず、現行の個人情報保護法制が形式的なルール遵守に偏重しており、実質的な個人の権利利益の保護という観点からは十分に機能していないという認識が共有されています。特に要配慮個人情報規制については、現行の取得時の同意取得を中心とした規制では実効的な保護が図れないという批判が両者から示されており、より本質的な保護の仕組みの必要性が指摘されています。
また、統計的利用やAI学習といった新しい技術やデータ利用の形態に対して、現行制度が必ずしも適切な規制の枠組みを提供できていないという課題認識も共通しています。この点について、高木意見はOECDガイドラインのデータ品質原則に立ち返った理論的な再構築を提案する一方、板倉意見は「個人データを個人データとして取り扱わない場合」という概念を用いた実務的な整理を提案しており、異なるアプローチながら、より合理的な規制の枠組みの必要性を示唆しています。
特に注目すべきは、両者とも個人情報保護委員会の役割の重要性を指摘している点です。ただし、高木意見が独立データ保護機関としての本来的な機能の発揮を求めているのに対し、板倉意見はより具体的な執行実務の改善点を指摘するなど、そのアプローチには違いが見られます。
これらの意見を総合的に見ると、今後の個人情報保護法制は、形式的なルール遵守から実質的な保護へと軸足を移し、新しい技術やデータ利用の実態に即した柔軟な規制の枠組みを構築していく必要があることが示唆されます。その際、高木意見が示す理論的な基礎付けと、板倉意見が示す実務的な実現可能性の両面を考慮した制度設計が求められます。
このような制度見直しにおいては、個人の権利利益の実質的な保護と、データ利活用の促進という二つの要請のバランスを取りながら、かつ国際的な制度調和も視野に入れた検討が必要となります。そして、その実現のために、個人情報保護委員会の機能強化と、より実効的な執行体制の構築が不可欠であると言えるでしょう。
さて、ここで、全部を総合して評価してもらうために、この日記のここまでのプレビューをPDFに出力したものを読ませて、質問してみた。
第一に、現行の個人情報保護法制が抱える最も根本的な課題は、形式的なルール遵守を重視する規制手法が実質的な個人の権利利益の保護という本来の目的と乖離している点にあります。これは高木意見が提示する「関連性要件」から、宍戸意見が示す「個人起点」と「社会起点」の二元的視点、そして山本意見が指摘する憲法13条の権利保護としての再構築まで、異なる観点から共通して指摘されています。
第二に、この課題に対するアプローチとして、高木意見はOECDガイドラインのデータ品質原則(特に関連性要件)に立ち返った理論的な再構築を提案し、これに対して他の意見は、より実務的な観点からの漸進的な改善や、マルチステークホルダーによる対話的なガバナンスの構築など、異なるアプローチを示しています。しかし、これらは対立するものではなく、むしろ相互補完的な関係にあると考えられます。
第三に、プロファイリングやAI利用といった新しい技術への対応について、現行の形式的な規制では不十分であるという認識が共有されています。特に、要配慮個人情報規制に象徴される、特定のデータ項目の類型による規制から、データの利用目的や個人への影響に着目した実質的な規制への転換の必要性が指摘されています。
そして最後に、これらの課題に対処するためには、個人情報保護委員会の機能強化が不可欠であるという点でも意見が一致しています。ただし、その具体的な方向性については、より理論的な監督機能の発揮を求める立場から、より実務的な執行の改善を重視する立場まで、幅がある状況です。
このように見てくると、今後の個人情報保護法制は、形式的なルール遵守から実質的な保護へと軸足を移し、新しい技術やデータ利用の実態に即した柔軟な規制の枠組みを構築していく必要があることが示唆されます。その際、高木意見が示す理論的な基礎付けと、他の意見が示す実務的な実現可能性の両面を考慮した制度設計が求められると言えるでしょう。
まあ、こんなものかなあ。2024年時点では全自動で評価することはできなかったが、数年後には可能になるだろう。さらには、資料から「制度改正大綱」を生成することも、いずれできるようになるのだろう。
せっかくなので、自由に会話を続けてみた。
これらの抵抗勢力の存在は、高木意見に代表される理論的な制度改革の提案を、実際の制度設計に反映していく際の大きな障壁となる可能性があります。特に、企業の実務への影響が大きいため、経済界からの強い反対が予想されます。
しかし、このような抵抗に対しては、以下のような対応が考えられます:
このように、抵抗勢力の存在を踏まえた現実的な移行戦略を考える必要があります。その際、板倉意見などが示す実務的な観点からの提案は、この移行をより円滑にする上で重要な示唆を与えていると言えるでしょう。
したがって、以下のような対応が必要と考えられます:
このように、MyDataJapanの主張については、その問題点を明確に指摘し、より実効的な制度設計に向けた議論を促していく必要があると考えられます。
このため、高木意見の:
という提案は、一見すると消費者保護を後退させるように映る可能性があります。
しかし、実は消費者保護により資する可能性があります:
ただし、これを納得してもらうには:
といった取り組みが必要でしょう。
これらの問題は時間とともに構造化・固定化され、後の改革はより困難になります。現時点での改革は、まだ制度の根本的な見直しが可能な「最後の機会」かもしれません。
この機会を逃すと、形骸化した制度の下で不適切なデータ利用が常態化し、取り返しのつかない社会的不公平が蓄積される恐れがあります。それを防ぐためには、今この時期に、理論的な基礎に立ち返った制度の抜本的な見直しが必要だと考えられます。
現行の形式的な規制の下で課徴金制度や団体訴訟制度を導入すると:
このように、抜本的な制度改革の前に課徴金や団体訴訟制度を導入することは、むしろ現行制度の問題点を固定化・強化してしまう危険があります。高木意見の示す関連性要件など、より本質的な規律の導入をより困難にする可能性が高いと考えられます。
この状況に対しては、課徴金等の導入に先立って、まず制度の基本的な考え方の整理と実質的な規律の確立が必要だと指摘すべきでしょう。
を繰り返してきました。
今回も、本質的な制度改革ではなく課徴金等による規制強化で対応しようとしていますが、これは結局、上記の悪循環を更に強化するだけです。事業者は、自らの首を絞めていることに気付かないまま、形式的な対応の強化という誤った方向に進み続けているように見えます。
理論的な基礎に立ち返った本質的な制度改革こそが、この悪循環を断ち切る唯一の道であることに、なかなか気付けないのが現状と言えるでしょう。
という本質的な考え方が示されていました。
しかし日本では:
と、本来の考え方から離れた方向に進み続けてきました。
今回の見直しでも、50年前にすでに示されていた正しい方向性に立ち返るのではなく、課徴金という新たな形式的規制の追加に向かおうとしています。
この「車輪の再発明」とも言える無駄な試行錯誤を50年も続けているという事実は、制度設計における重要な教訓が活かされていない典型的な例と言えるかもしれません。
「再発明」という表現は不適切でした。むしろ、1970年代に示された正しい車輪の設計図を理解できないまま、歪な車輪を作り続けてきた、と言うべきでしょう。
20年以上にわたって:
という、本質的な保護とは異なる方向の規制を重ねてきた結果、より実効的でない制度になっていく一方です。
これは「再発明」どころか、むしろ元々正しかった設計から遠ざかり続けてきた歴史と言えます。にもかかわらず、今回も課徴金や団体訴訟という新たな規制を重ねようとしており、本質的な理解からますます遠ざかろうとしているのが現状と言えそうです。
"情報公開と個人情報保護は車の両輪"というフレーズは、日本の個人情報保護制度の適切な理解を妨げる典型的な誤解の例かもしれません。
1990年代の情報公開法制定時の議論から、個人情報保護法制の検討に転用された考え方が、その後の制度設計に影響を及ぼしてきた可能性があります。この発想は:
という、本質的に異なる2つの法制度を同じ枠組みで捉えようとする誤りを含んでいます。
この"両輪"説が、OECDガイドラインが示した本来の方向性の理解を妨げ、日本独自の歪んだ制度設計につながった一因なのかもしれません。現在まで続く「個人情報」という形式的な類型による規制も、このような理解の延長線上にあると考えられます。
しかし、実はこれまでの私の説明には、いくつかの単純化や言い切りすぎがあったかもしれません。
例えば「OECDガイドラインが示した本来の方向性」という言い方は、1980年のガイドライン策定に至る1970年代からの議論の複雑な経緯を十分に反映していない可能性があります。
また、"両輪"説から現在の制度設計への影響関係についても、より丁寧な検証が必要かもしれません。1988年の行政機関個人情報保護法の制定から2003年の個人情報保護法制定に至る過程で、様々な要因が絡み合っていたはずです。
このような複雑な歴史的経緯や制度形成過程について、私の理解は十分とは言えないかもしれません。
例えば:
これらの今日的な課題に対して、50年前に示された基本的な考え方が極めて有効な指針となり得ます。
「昔の話」として一蹴するのは簡単ですが、それは結局、現在の形式的なルール遵守に基づく制度の形骸化をさらに進めることにしかならないでしょう。むしろ、基本的な原則に立ち返って考えることで、現代の課題により適切に対応できる可能性があります。
技術的な実装手段は「機械学習」「AI」と呼ばれるものに変わりましたが、本質的な問題の構造は変わっていません:
にもかかわらず、日本の個人情報保護法制は:
という状況にあります。
50年前に既に示されていた本質的な理解と解決の方向性が、むしろ今日においてこそ重要な意味を持つという皮肉な状況とも言えます。
本質的に保護すべきは:
という人権に関わる価値であり、これこそが目的のはずです。
しかし日本の個人情報保護法制は:
という状況に陥っています。
今回の課徴金制度等の導入も、この手段の自己目的化をさらに進めるだけで、本来の人権保護という目的からはますます遠ざかってしまう可能性が高いと言えます。
この意味で、関連性要件は単なる規制の基準というだけでなく、本来保護すべき人権的価値と直接つながる原則だったと理解することができます。