毛利空桑は熊本藩の幕末期の儒者で、
熊本藩領鶴崎で私塾[知来館]を開設し、
文武両道と尊皇論を唱えました。
その門弟は890人以上であったとされ、
遠方からもその意見を問う人が絶えず、
吉田松陰や斉藤監物も空桑を訪ねています。
「空桑 思索の道(左)」、
「毛利空桑先生像(右)」。
県立鶴崎高等学校南側の通り。
[空桑 思索の道]と名付けられおり、
中央帯に道名碑や胸像が設置されています。
「勝海舟像(左)」、
「坂本龍馬像(右)」。
その後方には勝海舟と坂本龍馬の銅像。
彼らは鶴崎に宿泊していますので、
これを記念して建てられたもの。
「毛利空桑記念館」。
[空桑 思索の道]の南側にある記念館。
現存する旧宅と私塾の建物と、
遺品館の3つで構成されていますが、
訪問時は休館日でした。
とはいえ旧宅と私塾は拝見出来ます。
「天勝堂(毛利空桑旧宅)」。
安政4年建築の空桑旧宅[天勝館]。
補修中なのかブルーシートで覆われています。
「知来館」。
同じく安政4年建築の[知来館]。
最初から私塾として建てられたもので、
1階は門弟の日常生活の場で、
2階は講義室となっています。
飲酒、男女交際、娯楽の禁止等、
25ヶ条の厳格な塾則があったとのこと。
「空桑毛利到先生頌徳碑」。
庭に建てられた空桑の頌徳碑。
空桑は藩医毛利太玄の次男に生まれ、
鶴崎の脇乱室、日出の西崦精舎、
熊本藩校時習館等で儒学を学び、
文政7年(1824)に私塾[知来館]を開き、
更に鶴崎詰の藩士子弟の指導も担当。
その名声は藩外にも聞こえました。
明治4年には大楽源太郎らを匿い、
その罪で1年間投獄されており、
後に国会開設に備えて政治結社を設立。
しかし国会が開かれる前の明治17年に、
88歳で死去しています。
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