幕末期の儒学の大家安井息軒の旧宅が、
宮崎市清武町に現存しています。
「安井息軒旧宅」。
安井家は飫肥藩伊東家に仕えた儒臣で、
息軒は安井滄洲の次男に生まれました。
幼少期に天然痘の疱瘡で片目が潰れ、
醜い容姿となっていましたが、
学問に勤しみ… 続きを読む
宮崎県宮崎市 安井息軒旧宅
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幕末期の儒学の大家安井息軒の旧宅が、
宮崎市清武町に現存しています。
「安井息軒旧宅」。
安井家は飫肥藩伊東家に仕えた儒臣で、
息軒は安井滄洲の次男に生まれました。
幼少期に天然痘の疱瘡で片目が潰れ、
醜い容姿となっていましたが、
学問に勤しみ… 続きを読む
毛利空桑は熊本藩の幕末期の儒者で、
熊本藩領鶴崎で私塾[知来館]を開設し、
文武両道と尊皇論を唱えました。
その門弟は890人以上であったとされ、
遠方からもその意見を問う人が絶えず、
吉田松陰や斉藤監物も空桑を訪ねています。
「… 続きを読む
長崎聖堂は本草学者の向井元升が、
正保4年(1647)に創建した学舎と孔子廟で、
始め立山書院と称したこの学舎では、
元升自らが儒学を講じていたという。
その後に元升が京都に行ってしまい、
また寛文3年(1663)の大火に遭った事で、
一時衰退してしまいますが、… 続きを読む
壬生城跡の壬生町城跡公園の南側には、
町立壬生小学校がありますが、
そこが藩校学習館の跡地とのこと。
「藩校学習館故址」。
藩校としての創立は全国的にも早く、
正徳3年(1713)の事とされます。
初代藩主鳥居忠英により設立されますが、
藩校設立当時の事については、
史料が失われており不明のようで、
家老… 続きを読む
中津藩の鉄砲掛であった三木与右衛門は、
明治維新の前後に私塾三木塾を開き、
明治5年まで数学を教えていたという。
当時の私塾は漢学や儒学、国学等が殆どで、
数学を教える塾は非常に稀でした。
その三木与右衛門の墓が… 続きを読む
金子重輔の墓のある旧保福寺墓地には、
長州藩儒臣山縣家の墓所もあります。
「山縣家墓所」。
山縣家は右田毛利家の儒臣だった家で、
その当主であった山県良斎が、
右田毛利家継嗣毛利就勝の宗家相続に伴い、… 続きを読む
興福寺境内に移築された長崎聖堂の建物。
長崎聖堂は本草学者の向井元升が、
正保4年(1647)に創建した学舎と孔子廟で、
始め立山書院と称したこの学舎では、
元升自らが儒学を講じていたという。
その後に元升が京都… 続きを読む