第18回黒髪の彼女と身長差40cmのダンス 近づいた2人、現れた人種の壁

有料記事

ステレンボッシュ〈南アフリカ南西部〉=遠藤雄司
 
[PR]

連載「それでも、あなたを」南アフリカ・日本編①

連載「それでも、あなたを 愛は壁を超える」

民族、国家体制、偏見…。世界には、人と人とのつながりを阻む様々な「壁」があります。それでも出会い、固い絆で結ばれた2人がいます。壁を超える愛の物語をつむぎ、背後にある国際問題のリアルを伝えます。

 南アフリカ出身のハンス・シュローダーが、初めて日本の港に足を踏み入れたのは1959年のことだった。

 ハンスはそのとき20歳で、南アフリカの商船の乗組員だった。日本の食器やおもちゃ、電化製品などを買い付けるため、神戸に寄港した。

 神戸の町を歩き、すぐに日本と、そこに暮らす日本人に魅せられた。

 道に迷って言葉が通じなくても、身ぶり手ぶりで案内をしてくれる親切さ。時間に正確な公共交通機関にみる勤勉さ。ドイツ系の自分には、日本人の正直さや実直さが合うように感じた。

 ハンスはドイツ移民の両親のもと、旧南西アフリカ(現ナミビア)に生まれた。

 産婦人科医だった父はハンスが幼いころに亡くなった。母フランチェスカやきょうだいとともに、6歳で南アフリカ南西部のワイン産地ステレンボッシュに移り住んだ。

 花粉症がひどかったハンスは、陸地を離れて働けるようにと商船学校に進み、乗組員として船長を目指しながら船に乗るようになっていた。

 日本を気に入ったハンスは、すぐに日本語の勉強を始めた。

 日本で買ったザ・ピーナッツと島倉千代子のレコードを聞き、船上ではNHKのラジオを聞いたり日本語のテープを聴いたりして、常に日本語を耳に入れるように努めた。毎朝、ラジオ体操もした。

汚れのない真っ白なつなぎ

 転機は65年9月に訪れた。

 26歳になっていたハンスは、本格的に日本語を学ぼうと国際基督教大学(ICU)に入学した。

 入学してまもなく、ハンスが選んだ部活動は、生け花部だった。日本では花粉症を発症しなかったし、菊や桜、ショウブなど日本の花に魅せられていた。生け花を通して日本の伝統にも触れ合えると思った。

 部室への道すがら、自動車部…

この記事は有料記事です。残り1743文字有料会員になると続きをお読みいただけます。

※無料期間中に解約した場合、料金はかかりません

この記事を書いた人
遠藤雄司
国際報道部・業務担当次長
専門・関心分野
アフリカ情勢、紛争、災害、事件

連載それでも、あなたを 愛は壁を超える(全42回)

この連載の一覧を見る