津波で亡くなった友、堤防での壁当て…仙台育英・洞口が伝えたい記憶
初めての大舞台。大観衆に囲まれても、不思議と緊張はしなかった。
「野球ができる」
仙台育英の洞口優人君(3年)はただ、そのことがうれしかった。
出身は岩手県釜石市の鵜住居町。11年前の3月11日のことを、いまでもはっきり覚えている。
当時は6歳で、保育園のお昼寝の時間だった。大きな揺れで起き、園庭に一度、避難した。
迎えに来た母に手を引かれ、途中から姉と合流して、高台の道路に逃げた。
そこから、黒い津波が街をのみ込んでいく様子を見つめた。
逃げ遅れた人が、津波に囲まれた家の屋根の上で手を振り、助けを求めていた。
鵜住居地区では震災で住民の1割が犠牲になり、保育園で仲がよかった同じ年齢の男の子も亡くなった。地区の防災センターに家族と一緒に避難したものの、2階の天井付近まで津波が到達し、流されたという。
「ショックで、涙も出なかった」
洞口君の家族は無事だったが、築5年ほどの自宅が津波に流された。
避難所となった内陸の小学校の体育館で3~4カ月ほど過ごし、その後も2年ほど、市内の仮設住宅で暮らした。
小学2年生のときに野球を始めたが、練習環境は厳しかった。
練習場所となっていた小学校…