病院に置き去りで死亡、冷たい床で衰弱… 過酷な避難と震災関連死

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福地慶太郎 斎藤徹 滝口信之 滝坪潤一
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 朝日新聞は昨年10月から、関連死の認定例がある福島県内26市町村に情報公開請求をするなどして、開示された24市町村の関連死者2027人分の文書を入手し、分析した。自治体ごとに書式は異なるが、主に震災前の居場所や死因などが記された資料をもとに集計すると、亡くなる経緯を確認できた1379人のうち、震災時に病院や高齢者施設などに入っていた人が少なくとも476人いたことがわかった。避難による混乱で、心身に大きな負担がかかっていた様子が読み取れる。

 東京電力福島第一原発の北西4キロの特別養護老人ホーム「せんだん」(福島県双葉町)は、一部の入所者が関連死認定された施設の一つ。震災発生翌日の2011年3月12日、88人の入所者が5グループに分かれ、自衛隊のヘリなどで避難を始めた。学校の体育館や老人ホームを転々とし、避難先の協力を得ながら受け入れ先を探し、県内外20以上の施設と病院に落ちつくまで約1週間かかった。

 当時の施設長だった岩元善一さん(76)によると、88人のうち、避難から2年間で38人が死亡。震災前の死者は年10人ほどで、その2倍に当たるという。「原発事故がなければ、こんなに多くの人が亡くならなかったのは確かだ」。岩元さんは、急激な環境の変化が、入所者の心身の負担となったと考えている。

 せんだんのはす向かいの双葉厚生病院(福島県双葉町)には震災当時、寝たきりを含む患者136人が入院していた。12日朝に避難を始めたが、患者35人を乗せた自衛隊の車が、医師や職員が同乗しないまま出発し、15日まで病院が行方を把握できなかった。避難所では重症患者に必要なボンベの酸素が切れるなど混乱。避難を始めた12日から2日間で末期がん患者ら4人が死亡した。避難後約2年間に亡くなった人は計26人。関連死と認められた人も含まれる。ともに避難した院長の重富秀一さん(72)は「避難中は寒く医療設備も不十分だった。死期が早まった人がいたのは間違いない」と、硬い表情で振り返る。

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この記事を書いた人
福地慶太郎
科学みらい部|原子力担当
専門・関心分野
原子力、福島第一原発事故、生命科学
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    中川透
    (朝日新聞編集委員=経済、暮らしとお金)
    2023年3月11日19時25分 投稿
    【視点】

     私は震災当時、福島総局で勤務していました。原発事故の約半年前、震度7クラスの地震に耐えられるという免震重要棟が東京電力福島第二原発に完成し、取材に行きました。当時の記事で、「緊急時に発電所を守り、地域に絶対ご迷惑を掛けないための施設」との

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