2024年は、日本映画の傑作「砂の器」(1974年、野村芳太郎監督)が世に出てから50年となる。傑作たらしめた要因の一つは、自身の悲惨な境遇を知る人物をあやめ、過去を葬り去りたい天才音楽家・和賀英良の子ども時代である本浦秀夫を演じた子役の演技にある。セリフは一切なし。しかも、冒頭と終盤にしか出演しないが、すごみのある表情だけで見る者の心を揺さぶった。「伝説の名子役」と呼ばれた彼の名は春田和秀さん(57)。同作の天才的な演技は、役柄さながらに実人生にも複雑な境遇をもたらし、彼は若くして役者を辞めた。
【連載】天才観測
藤井聡太さんや大谷翔平さんら「天才」の活躍に沸きます。天才とはどんな存在なのか、考えます。
――いつから、俳優をやっていたのですか。
私の出身は名古屋市ですが、気がついたときには、母と新幹線に乗って東京と行ったり来たりを繰り返していました。1、2歳ぐらいから子役をしていたのだと思います。
テレビドラマやコマーシャル、ラジオドラマ……。大人社会の中にポツンと子役がいる。それが当たり前の生活でした。幼心に、大人に可愛がってもらおう、遊んでくれる人にべったりという状態だったと思います。
――映画「砂の器」の秀夫役は、どうやって決まったのですか。撮影は1973年の冬ごろから翌年初秋までの約10カ月間でした。
気づいたら決まっていました。色々な現場で「『砂の器』をやるんだってね!」と言われたのを覚えています。
撮影時は7~8歳ごろで、都内の公立小学校に通っていましたが、他の作品を掛け持ちしていたこともあり、約10カ月間は学校に全く行っていませんでした。学校がなぜそんな状況を認めたのか、本当に謎なのですが、今であればあり得ないと思います。
「砂の器」の撮影では、本州から北海道まで制作者たちとずっと一緒の生活。電車に乗ったり、バスで移動したり。「色々な所に行くんだなあ」と揺られる日々でした。私には、専属のような制作スタッフもいて、撮影の待ち時間中にキャッチボールなどで遊んでくれたのもその方でした。
――撮影はかなりハードだったのでは。
夜中の撮影もありましたし、24時間とまでは言わなくても、毎日、相当長い間、現場にいたのではないでしょうか。だから、現場で仮眠を取り、遍路姿の衣装のまま、ご飯を食べて、という日々でしたね。
たとえば、映画の冒頭に私が出てきて、海辺でそれこそ“砂の器”を作っているシーンがありますが、何日もかけて撮影しました。
――秀夫は、周囲の偏見にさらされ、父と放浪の旅を続けるわけですが、セリフが全くない役。その分、表情のインパクトがすさまじい。鋭い目つきと、じっと耐え続けるような表情で悲惨な境遇を背負ったさまを見せ、それが観客の心の琴線に触れたのは間違いありません。どうやって役を演じたのですか。
秀夫が遠くから学校の運動場を眺め、体育の時間を楽しそうに過ごす子どもたちを見つめるシーンがあるでしょう? まさに、あれです。
――あれ、とは?
自分が学校に行けていない時の境遇と、その時に抱いていたつらい気持ち。それらが投影された目つきです。それが秀夫の目であり、表情です。
昭和50年代の小学校生活といえば、それなりに楽しい良き時代だったと思うのですが、僕は同級生と全くコミュニケーションが取れなかった。そのなかで、映画の中に溶け込むことをやらなくてはいけなかったというギャップがありました。
当初は、セリフがあると思って現場に入ったのですが、「今回はないよ」と言われて。で、疑問に思うわけですよ。「セリフがない映像ってどう撮るんだろう」と。
天才音楽家の子ども時代を演じるというのは分かっていたけれど、子役だから言われるがままに対応するというのが当たり前。ただ、野村監督からは細かな動き方などの調整で何度もやり直すことは多かったですが、演技について具体的な指示は何もなかったと記憶しています。
純粋無垢な同級生の行動が苦しみに
――今から考えると、あり得ないような特殊な環境下での撮影ですね。
ああいう特殊な環境だったからこそ、私の演技がうまく引き出された側面はあったと思います。ただ、あの感覚は自分だけにしか理解できないものでした。感情の処理の仕方は本当に大変でした。映画の反響はものすごいものがありましたが、いざ学校にいくと、複雑な気持ちになりましたね。
――どういうことでしょうか。
「砂の器」で天才的な演技を披露した春田和秀さん。しかし、その演技には、自身の「つらい気持ち」が投影されていました。そして、作品が成功した一方で、自身の境遇はさらに複雑なものになっていきました。役柄さながらの孤独を背負った春田さんが下した決断の背景と、「少し後悔しているところもある」という内実に迫りました。
たとえば、現場に入るときの…