第11回日本一の赤字路線に乗りませんか 銀座で切符3千枚売った町長の執念

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瀬戸口和秀
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 北海道北部に美深(びふか)町という町がある。豪雪地帯で、主な産業は林業と農業。町を南北に走るJR宗谷線の美深駅周辺が、町の中心部だ。

 駅には宗谷線がとまる1番ホームと2番ホームがあるが、かつてはもう一つ、3番ホームがあった。レールは撤去され、冬場は除雪されることもなく深い雪に覆われる。約40年前まで、東に約20キロ離れた仁宇布(にうぷ)という駅まで、美幸(びこう)線というローカル線が走っていた。

 当初は仁宇布の先、オホーツク海に面する枝幸(えさし)町の興浜北線・北見枝幸駅まで、約80キロが開通するはずだった。だが、計画は中止となり、開通から20年余りで廃線になった。その全線開通と存続に全身全霊をかけて取り組んだ町長がいた。

地方路線を中心に今後の鉄道網のあり方を模索するため取材を重ねた連載「分岐点」。記者たちはその過程で、各地のローカル線の現場を訪ね、関係者に話を聞きました。本編には盛り込み切れなかったそれぞれの鉄道の話を紹介します。

 美幸線の建設が決まったのは1957年。「美深町史」によれば、着工記念式典が開かれ、お祝いのバンド行進やちょうちん行列で町は大にぎわいだった。美深―仁宇布間は、東海道新幹線が開業し東京五輪があった64年に開通した。町民は歓喜し、町中がくす玉や万国旗で飾り付けられた。美深駅での出発式では、町民がホームに入りきれず、線路沿いにあふれて日の丸の旗を振る中、5両編成の列車が3番ホームを出発した。

 元町職員の佐藤智三氏(77)は、出発式に行き旗を振ったことを覚えている。直前に父が亡くなり、列車を見て「見せてやりたかった」と思ったという。枝幸町まで、当然開通すると信じていた。

開通からわずか4年で廃止対象に

 豪雪地帯の内陸部と海岸地帯を結ぶ美幸線には、周辺住民から様々な期待が寄せられていた。沿線住民の生活・福祉路線の確保、文化・産業の発展、過疎化の防止――。沿線の町長らは、美幸線の全線開通を「道北住民が五十年間に亘(わた)り抱きつづけた悲願」であり、「国が地域になし得る最大の福祉であり、義務」などと言葉を並べて切望した。

 ただ部分開通した美幸線は、距離が短い行き止まりの路線、いわゆる「盲腸線」で、当初から赤字が予想された。部分開通のわずか4年後、美幸線は国鉄総裁の諮問機関である国鉄諮問委員会の意見書で、廃止対象路線とされた。

 国鉄が公表していた、100円の収入を得るのにかかる費用を示す営業係数をみると、美幸線は、71年度が全国ワースト4位▽72年度同1位▽73年度同2位▽74年度同1位▽75年度同1位――。こうした数字に「日本一赤字路線の不名誉なレッテル」と頭を抱えたのが、当時の長谷部秀見・美深町長だった。

 長谷部氏は地元で生まれ育ち…

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