東郷町春木白土鎮座山神神社。
東郷町と聞くと名古屋市内に住む者のイメージは遠い印象を持ちますが、昨年12月、かみさんの免許更新で天白区平針を訪れた際、更新待ちの時間を利用して訪れました。神社は運転免許試験場から東へ5-6分の東郷町の丘陵地に鎮座します。
神社は南垂の丘陵地、県道36号線の白土西交差点の北側に位置します。
地下鉄桜通線の徳重駅から県道36号線を東に向かい、40分(2.7㌔)ほど歩くと社頭に到着します。
途中には徳重熊野社や徳一稲荷もあり、退屈せず楽しめるでしょう。
鳥居は東向きに建てられ、南北に長い社地を持っています。
駐車場は、この先に境内の出入り口があるので、そちらから境内に停めさせて頂きました。
鳥居をくぐると参道は右に折れ、境内右側に昭和2年寄進の「山神神社」社標が立てられています。
石灯籠の右に保存されている旧神楽殿の鬼瓦。
現在の広い境内には神楽殿はありませんが、過去には神楽殿が建てられていたようです。
手水鉢には水が張られ、色付いたイチョウの葉が浮かんでいました。
山神神社も以下の内容で掲載されていました。
当神社は神職常駐の神社ではなく、普段は氏子により管理されている神社で、祭祀は富士浅間神社(愛知郡東郷町春木狐塚3801)が兼務します。
そちらのHPには以下の由緒が掲載されていました。
また、この事は「尾張徇行記」によれば、寛政期以前に人家が無かったと記されていることよりもわかる。
東部丘陵地の宅地化による造成と共に、そこから出る磨砂土は造成資材として使われ、猿投山周辺にも大規模な採掘所があるように、この辺りでも多く産出されていたようです。
磨砂土はもともと花崗岩で、そこに含まれる石英や長石が長年の風化により出来上がった土で、茶色いのは粘土状に風化した長石によるものらしい。
上質なものは白みが強く焼き物の原料に使われ、猿投山で見たトロミルはそのために使われていました。
また、wikiに当社の記述があり、その内容は以下のものでした。
磨砂採掘地趾。
東郷町の町名由来によると「白粘土や磨砂が採掘されたので、いつの頃からか住民の間で「白土」というようになり、それが地名になった」と紹介されていました。
勝手な推測ですが、古い地図から神社の存在を調べてみると、明治・大正の地図には鳥居の印はなく、当時は山と田んぼばかりで、現在の県道沿いに小さな集落が点在する程度でした。
そうした場所なので、それ以前の時代に山の神が祀られていたのかもしれません。
古い地図をみてみると、昭和43年の地図になって鳥居が現れます、寛政期(1789-1801)に人家が無かったとというのも頷けます。
現在のような姿になったのは、周囲の景色から田畑や山の姿が消え始めた明治・大正時期だと思われます。
まさにこの土地と共に生まれ、変貌を見続けてきた神社でしょう。
ニノ鳥居から拝殿の眺め。
鳥居の先の参道を守護する狛犬。
寄進年を見忘れましたが、昭和初期か大正末期のものだと思います。
鳥居から先の石段から切妻平入の拝殿の眺め。
「山神神社」拝殿額。
拝殿から幣殿・本殿の眺め。
神紋は「折敷に縮み三文字」だろうか、あまり見覚えのない紋です。
現在の社殿が修築されたのは比較的最近のようです。
拝殿右から幣殿・本殿と境内社の眺め。
板宮造の境内社。
左が津島神社、右に秋葉神社が祀られています。
本殿後方から社殿全景の眺め。
本殿は神明造で大棟には4本の鰹木、内削ぎの千木が付きます。
境内の片隅で見かけた古い社殿の解説。
現在のニノ鳥居あたりに四方吹き抜けの神楽殿が描かれており、これが社頭の鬼瓦でしょう。
この看板には年度の記載はありませんが、社殿建替前は磨砂採掘地趾の石標は石段左にあり、慰霊碑、津島神社が石段の両脇に祀られていたようです。
上段の拝所の両脇に秋葉神社、多賀神社が祀られていたようです。
多賀神社.....見落としたか?
現在は故郷を一望できる高みに白戸神社戦没者慰霊碑が祀られています。
拝殿前から境内、白土の街の眺め。
石段脇の桜の樹に絡みついたツルの紅葉がとても鮮やかでした。
山神神社
創建 / 寛政11年(1799)
祭神 / 大山咋神
境内社 / 津島神社、秋葉神社、白戸神社戦没者慰霊碑
氏子地域 / 涼松、春木、兵庫、三ツ池、緑区:白土、東神の倉
例祭日 / 10月第1日曜日
参拝日 / 2024/12/05
所在地 / 愛知郡東郷町春木白土1
愛知県警察運転免許試験場から車移動 / 距離2.4㌔、移動時間約7-8分