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643年に山背大兄王が蘇我入鹿に滅ぼされた上宮王家滅亡事件。系図を見ると用明天皇後裔一族のほぼ全員が殺されているのがわかる。凄まじい皆殺し事件である。 皇極天皇の関与 皇極天皇は事件に関与していたのであろうか。 皇極天皇の前夫の高向王が泊瀬王の義兄弟との解釈が正しいとすると、628年の政変時に、皇極天皇は舒明天皇+山背大兄王+蘇我蝦夷陣営に対し、相当な恨みを持っていた可能性がある。 593年に聖徳太子は崇峻天皇=泊瀬部天皇の後継の地位を継承したが、この崇峻天皇の資産を継承したのが名前からすると聖徳太子第二皇子の泊瀬王である。 628年推古天皇崩御時、聖徳太子の最有力後継者はおそらく泊瀬王であっ…
淡海三船が「皇極」と名をつけた天皇。まさに皇を極めた天皇であるが、出自が謎めいている。 皇極天皇の父方の系譜 日本書紀によると皇極天皇の父は茅渟王であり祖父は押坂彦人大兄皇子となっている。茅渟王の母に関する記載はない。 古事記では押坂彦人太子の子の智奴王の母は「漢王の妹、大俣王」としていて、大俣王の父母が誰か書かれていない。 漢王の妹、大俣王 大俣王については同名の大俣王が敏達天皇妃の春日老女子の第四子にいるが、敏達天皇の子に漢王の名がない。 春日老女子の第四子の大俣王の同母兄としては難波王、春日王がいて、いずれかの別名が漢王であれば当該大俣王が智奴王の母との解釈も可能となる。 また後世の資料…
敏達天皇の正嫡である押坂彦人大兄皇子。系図を眺めると政治的立ち位置が見えてくる。 太子彦人皇子 日本書紀には丁未の乱の直前に押坂彦人大兄皇子の記事が出てくる。 587年4月2日に用明天皇が天然痘に罹患し死の床についたことで紛争が勃発。「群臣が大連を陥れようとしている」との噂から物部大連守屋が本拠地の河内国に避難。物部氏側の中臣勝海は『太子彦人皇子』と竹田皇子を呪詛するも、事の成り難きを知り、彦人皇子に帰順するが、彦人皇子の舎人に斬られた。 このように、日本書紀は、押坂彦人大兄皇子は物部氏側の中臣勝海を斬っており、物部陣営には属さず、推古天皇寄りの立場に居たと記している。 系図からわかること 事…
宝皇女=皇極天皇の庇護のもと葛城王・多智奴女王・漢皇子は生き残り、天智・間人・天武となったとする解釈。 さらに解釈を進めると持統天皇の母は間人皇女という驚愕の解釈も可能になる。 智奴の名を嗣ぐ者 皇極天皇の父、茅渟王は、その母である大俣王が敏達天皇皇女である(継体持統⑦:漢王の妹、大俣王 - 上古への情熱)場合、田村皇子と血統的には差がなく、皇嗣筆頭であった可能性が高い。 皇極天皇の前夫、高向王は、用明天皇第一皇子である田目皇子の息子である可能性があり、姉妹の佐富女王は聖徳太子第二皇子の泊瀬王妃である。泊瀬王、高向王とも聖徳太子の後継者として有力な皇子であった可能性が高い。 628年推古天皇崩…
推古天皇崩御時に粛清された泊瀬王及び義兄弟の高向王には3人の遺児、葛城王、多智奴女王、漢皇子がいた。宝皇女とともに3人は生き残ったのか? 628年推古天皇崩御時にあったこと 推古天皇崩御時の政変についてまとめると以下の通りとなる。 推古天皇崩御を契機に、①蘇我馬子の兄弟の境部摩理勢、②聖徳太子第二皇子の泊瀬王、そしておそらくは、③泊瀬王の義兄弟の高向王の3人が排除された。皇嗣筆頭格であった茅渟王も推古天皇崩御までに排除されたと見られる。 結果、①蘇我蝦夷が蘇我本宗家の地位、大臣家の家督を獲得、②聖徳太子第一皇子の山背大兄王は上宮王家筆頭の地位を獲得、③田村皇子が高向王妃宝皇女を娶って舒明天皇と…
淡海三船が「皇極」と名をつけた天皇。まさに皇を極めた天皇であるが、出自が謎めいている。 皇極天皇の母方の系譜 日本書紀によると皇極天皇の母は吉備姫王であり吉備姫王の両親の記載はない。出自を記載しない方針であったように見える。 後世の系譜資料では、吉備姫王は、欽明天皇の子、桜井皇子を父とし、母不詳としている。 二人の桜井之玄王 吉備姫王の父とされる欽明天皇の子である桜井皇子、日本書紀では堅塩媛の第十子桜井皇子であり、古事記では桜井之玄王とされている。 古事記では桜井之玄王は二人いる。堅塩媛の皇子の桜井之玄王と、敏達天皇推古天皇の子=堅塩媛の孫の皇女の桜井玄王である。 吉備姫王の親の名は桜井玄王で…
日本書紀斉明紀の書き出しは衝撃的である。「天豊財重日足姫天皇(皇極・斉明天皇)は、最初、橘豊日天皇(用明天皇)の孫、高向王に嫁がれ、漢皇子をおうみになった。」 舒明紀でも皇極紀でもなく、なんと、斉明紀の冒頭に、しれっと、「皇極天皇にとって舒明天皇は再婚相手であった」と暴露している。 用明天皇の子であり孫であるとは? 日本書紀では高向王の父母は記載されていない。 高向王は日本書紀で明確に用明天皇の孫とされているが「本朝皇胤紹運録」では用明天皇の子となっている。 高向王は用明天皇第一皇子の田目皇子の子であるとする説がある。 この説の通りとすると、用明皇后の子であり用明天皇の孫であることになる。「本…
神武天皇から持統天皇までの記紀が扱う時代について系図を作成してみた。 この時代の神武天皇からはじまる系図では、通常は男系の単調な系図となっていて、神武天皇から成務天皇までは父子継承であることから、系図は一直線になっている。 ところが、本来の記紀には多彩な母系も記述されており、決して一直線の単調な系図で表されるようなものではなく、また、"神武"のような漢風諡号も使われていない。 漢風諡号を用いた単調な系図は、そもそもの記紀の世界観からは大きく異なったイメージを与えて、あまり適切ではないのではないか? 漢風諡号を用いず、母系も意識した系図を作成すると、どのようになるのか? そのような観点から、記紀…
前回(上古の時代の系図の作成 - 上古への情熱)自作の『記紀等準拠系図』を紹介したが、この系図を眺めると、親子継承の間隔や婚姻関係など、いろいろ無理があることに気づく。 〇親子継承が大きく伸びている部分として、①ワチツミ、②物部十市根、③武内宿禰が挙げられる。②③は伊香色女、伊香色男の世代が3世代ずれている。①については、ハエイロネ姉妹の世代が3世代、ワチツミが1〜2世代ずれている。 〇3代から6代までの天皇は、磯城県主ハエの子の世代の娘を妃としており、この間の天皇を直系で繋ぐのは無理がある。 〇同世代で活躍したとされる四道将軍の四人の世代がバラついていて、同時期に活躍していたとするのは無理が…
古事記には景行天皇の6世孫である迦具漏比売(カグロ姫)が景行天皇の妃となり忍熊王の祖父を産む、さらには応神天皇の妃となり允恭天皇皇后の忍坂大中姫を産むという極めて不可解な系図がある。 筆者もどう解釈したらいいか長年悩んでいたが、ある程度説明可能な解を見つけたので、紹介する。 景行天皇6世孫カグロ姫に至る人物は以下の通り ⓪景行天皇 ①ヤマトタケル ②息長田別王 ③河派仲彦王(杙俣長彦王) ④飯野真黒姫(若建王妃) (若建王は走水海で入水して果てた弟橘姫の子) ⑤スメイロ大中彦王 (天皇の弟という意味でここでは「皇大中彦王」と漢字を当てた) ⑥カグロ姫 となる。 ここで⑤皇大中彦王であるが、天皇…
初代神武天皇から四代懿徳天皇までは名の最後がミミ、ミとなっている。 初期天皇家系図 ※系図作成上の基本的な考え方は「上古の時代の系図の作成 - 上古への情熱」及び「世代を修正した系図を作ってみる - 上古への情熱」を参照。 名のさいごがミ、ミミとなっている耳王家は彦ホホデミ神武天皇から始まり最後が磯城津彦の子のワチツミとなる。四代スキツミ懿徳天皇の世代までは、すべて男で姫がいない特徴がある。(正確には男女不明であるが、明確な姫がいない。) ワチツミの父は、三代磯城津彦タマテミ安寧天皇の子で、安寧天皇と同じ磯城津彦であるが名前が伝わらない。また「世代を修正した系図を作ってみる - 上古への情熱」…
初期天皇家の妃は古事記と日本書紀で記載が大きく異なる。 初期天皇家系図 ※系図作成上の基本的な考え方は「上古の時代の系図の作成 - 上古への情熱」及び「世代を修正した系図を作ってみる - 上古への情熱」を参照。 耳王家の妃に関する系譜は、記紀で大きく異なる。古事記では妃を大物主及び磯城県主からとしているのに対し、日本書紀は事代主の子孫の出身としている。 大物主は三輪山の神であり、磯城県主一族は大和盆地南東部の実力者で間違いない。 一方で、「解説:第五代孝昭天皇と第十代崇神天皇の出自と水銀朱利権について - 上古への情熱」でも解説した通り、事代主一族は那賀川の水銀朱鉱山開発を行うなど鉱山権益の実…
神武東征に際し活躍した弟磯城は初代磯城県主となり、磯城県主家は代々妃を出し繁栄するが、七代孝霊天皇に妃を出して以降、歴史から消えてしまう。 初期天皇家系図 ※系図作成上の基本的な考え方は「上古の時代の系図の作成 - 上古への情熱」及び「世代を修正した系図を作ってみる - 上古への情熱」を参照。 弟磯城は神武東征の立役者として初代磯城県主黒速となる。神武天皇は大物主の子のイスケ依姫を妃とした。このイスケ依姫と弟磯城は関係者で兄弟と考えられるが、関係についてはっきりとは書かれていない。 綏靖天皇世代の磯城県主ハエは、子や姪が3代から6代の天皇妃となり、強大な権勢を保持していたと考えられる。この磯城…
初期天皇家系図 ※系図作成上の基本的な考え方は「上古の時代の系図の作成 - 上古への情熱」及び「世代を修正した系図を作ってみる - 上古への情熱」を参照。 崇神天皇に至る基本的な経緯は以下の通り(参照「解説:第五代孝昭天皇と第十代崇神天皇の出自と水銀朱利権について - 上古への情熱」)。①弥生時代後期、事代主一族が那賀川上流の水銀朱鉱山を開発。②その後、大物主一族が、日向出身の饒速日と、那賀川の事代主一族のトミ彦とともに、大和の宇陀の水銀朱鉱山を開発。③噂を聞きつけた日向のホホデミ(初代神武天皇)が三輪山麓に乗り込んできて、大物主一族と手を結び、饒速日とトミ彦の一族を追い出した。④しかし物流は…
今週のお題「肉」 兄が三重県に住んでいるので、実家に帰ると、松阪牛のお土産を頂くことがあります。 ある年に頂いた松阪牛には、牛の系図が入っていて驚きました。親牛と祖父母の牛が系図に載っていて、それぞれの名前まで書いてありました。由緒ある松阪牛だと証明するものだと思います。 期待に外れることなく、舌触りが柔らかく、噛むと口の中で溶けるような美味でした。頂き物でないと中々口にできません。 馬にはサラブレッドというのがありますが、牛にも血統書があるとは知りませんでした。 ところで以前、自分の家系図を調べたことがあります。4代前に一度血統が絶えていました。家系を残そうと、他の家の長男が養子として入って…