最寄駅は近鉄桜井駅、名古屋から特急だと桜井には停車しないので、伊勢中川で乗り換えが必要になります。
久し振りの電車旅、急ぎの旅でもないので、のんびりと桜井までの車窓の眺めを楽しもう。
桜井駅から南へ約15分ほど歩いた桜井市谷地内の三叉路で「左 土舞臺(台)、右 安倍文殊院」とある道標を見かけた。(道標の位置)
ここから道標に従い100㍍ほど先の三叉路で、左に続く緩やかな登り坂を進んでいきます。
心細くなるような細い道を道なりに進み、小さな溜池を右手に見ながら歩いて行けば安倍文殊院は近い。
ここを先に進めば文殊院の駐車場に至ります。
G先生は正門ではなく、東山門に導いてくれました、まぁ良しとしよう。
桜井駅からここまで1.5km程、途中Google先生を疑い、遠回りしたため、移動に30分ほどかかりました。
東山門から駐車場に入ると、正面に花の広場と方型屋根の不動堂が見えてきます。
この時期の花の広場は、コスモスが植えられ、境内に彩りを添えてくれるのですが、訪れた時には最盛期は過ぎていました。
観光客で溢れているんだろうなと予感していましたが、最盛期を過ぎた花の広場に人影もなく一安心。
文殊院の所在地は奈良県桜井市阿部645。
鎮座地は、安倍丘陵の西端に位置する華厳宗の寺院で、山号は安倍山、院号は文殊院。正式名称は安倍山崇敬寺文殊院で、別名「知恵の文殊」、学業成就の寺として知られ、獅子に乗った国宝の文殊菩薩像を本尊とする寺です。
また、平安時代の陰陽師、安倍晴明の出生地とも伝わる寺で、境内東の文殊池を見下ろす高台には晴明が天体観測を行った「天体観測の地」があります。
そこから西の眺めは伽藍が一望でき、その先の藤原京跡や、耳成山、畝伏山、遠く二上山が一望できます。
境内の伽藍は安倍倉梯麻呂、安倍晴明、開運弁財天を祀る金閣浮御堂霊宝館と本堂、礼堂、清明堂、稲荷社、白山堂、不動堂が主な伽藍で、拝観料は、金閣浮御堂前の発券所で浮御堂と本堂の共通拝観券1200円を買い求め、本堂の祈祷所で記念品の文殊菩薩像のポストカードと落雁、御守りを頂いて本堂内拝観の流れです。
駐車場から右手の境内の眺め。
正面が本堂、礼堂で、右手の斜面に続く赤い鳥居は稲荷社へ続いています。
伽藍北側の山の頂に鎮座する稲荷社。
駐車場から南の眺め。
目の前の文殊池には、六角形の屋根を持つ金閣浮御堂霊宝館が建てられています。
堂の軒下に掛けられている額には「弁財天 仲麻呂堂」とある。
この堂には奈良時代の遣唐使 安倍仲麻呂と、平安時代の陰陽師 安倍晴明の肖像画などが安置されています。
堂の外周は七参り業場となっており、堂を一周して「〇✖にならないように」と祈願し、この額の下の納札箱に札を納め、それを七回繰り返してから内陣を拝観します。
内陣には大和七福神の一つ、開運弁財天像が安置されており、なかでも秘仏十二天軸は春夏秋冬において3幅ずつ公開されています、4月末の弁財天大祭では全てが公開されます。
堂から見る文殊池と本堂、礼堂。
池の周囲にもコスモスは植えられていますが、存在感は薄くなっていました。
こちらの境内は四季折々の花に包まれます。
この時期はコスモス、既にピークは過ぎていましたが、遅咲きの花が境内を彩っていました。
対岸の花の広場は、コスモス迷路が作られますが、大部分がピークを過ぎており、浮御堂右側の花が比較的綺麗に咲いていました。
西とつく様に、境内の白山堂左の山肌には東古墳もあります。
飛鳥時代に造立されたもので、国の指定史跡の中で特に重要とされる「特別史跡」に指定されています。
古墳の特別史跡指定は明日香の石舞台古墳、キトラ古墳、高松塚古墳と共に、文殊院境内の二か所が指定を受けています。
内部は、大化元年(645)当時のまま保存されており、巨大な花崗岩を加工し、左右対称に石組みがされています。
また玄室の天井岩は一枚の石で、大きさは15㎡あり、中央部分がアーチ状に削られ、築造技術の美しさは日本一とされるものです。
この墓は、安倍倉梯麻呂の墓とも伝えられています。
側壁の石組などは、今でも緻密に組まれた状態を維持しています。
左の手水舎、右手に見える本堂は手前に能楽舞台を備えたもので、元は安倍寺満願寺の本堂だったもの。
本堂奥に本尊の文殊菩薩を安置する大収蔵庫があります。
宝珠院は鎌倉時代には塔頭寺院二十八坊を有する大和十五大寺の一つとして栄えましたが、永禄6年(1563)松永弾正の兵火を受け一山ほとんどが火災で焼失、寛文5年(1665)に現在の本堂(文殊堂)が再建されました。
手水舎。
龍口からは勢いよく清水が注がれていました。
鉢には銘が刻まれていましたが、読み取れなかった。
本堂。
前側の三方が吹き抜けになっており、能楽舞台として使われるようです。
本殿の山号額。
御祈祷を終えると、内陣手前から本尊の文殊菩薩像を拝むことができます。
ツアー客は慌ただしく拝観を終え本堂を後にしていきます、 個人拝観の自分達は静まり返った本堂でじっくり鑑賞できます。
こちらが騎獅文殊菩薩像(HPから引用)。
何かで見た記憶があり、実物を見るのは今回が初めて。
内陣中央の獅子に乗る文殊菩薩は高さ7mで日本最大といわれます。
仏師快慶が建仁3年(1203)~承久2年(1220)の17年をかけ作られたもので、国宝に指定されています。
群像は、文殊菩薩が乗る獅子の手綱を優填王が持ち、善財童子が先導役を務め、仏陀波利三蔵と最勝老人が左に付き添う姿で構成されています。この姿は、雲海を渡り、衆生の魔を払い、智恵を授けるための説法の旅に出かけている様子を表しています。
この姿が本来の姿です。
しかし、これは2024年7月~2025年5月の期間だけ、文殊菩薩が約15年ぶりに獅子から降りている姿を拝観できます。
今年、空也上人像の実物を間近に見て、強烈な印象を受けましたが、この騎獅文殊菩薩像もそれに匹敵するものです。
堂内には、大化の改新の談合の地、多武峰に鎮座し、廃仏毀釈で廃寺となった妙楽寺(現談山神社)の本尊釈迦三尊像(重要文化財)も安置されています。
本殿左の本坊、ここから南に進むと表門へ続きます。
鐘楼右側に稲荷社の鳥居があり、山の頂の社に続きます。
額には「正一位 権大明神」とあります。
花の広場入口に鎮座する不動堂。
不動堂から境内を東に向かうと写真の十一面観音が安置されています。
飛鳥時代に造立されたもので、「閼伽井(あかい)の窟」と呼ばれています。
閼伽井とは「閼伽水の井戸」の意で、横穴式石室や横穴墓など、玄室と外部を結ぶ通路の中程に、古来より枯れることのない泉があったことに由来しています。
緻密な石組の西古墳同様、飛鳥時代のものとされますが、東古墳にはそうした緻密さはあまり感じられない。
白山堂。
「白山堂は、室町時代に建立されました。
流造屋根柿葺(こけらぶき)で美しい曲線の唐破風をもった社殿で、国の重要文化財にも指定されています。御祭神は全国の白山神社に祀られる白山比咩神(しらやまひめのかみ)と同一神である菊理媛神(くくりひめのかみ)で、当山の鎮守です。
白山信仰と陰陽道は古くより深く結びついた為、安倍晴明ゆかりの当山に白山神社の末社が勧請されました。
菊理媛神は『日本書紀』によると伊弉諾尊(いざなぎのみこと)と伊弉冉尊(いざなみのみこと)の縁を取り持たれた神様で、菊理媛の「くくり」は「括る」にもつながり、古来より縁結びの神様としても信仰されています。「縁」は巡り合わせでもあることから、人と人を結ぶ良縁成就も御祈願下さい。」
朱の玉垣が社殿を取り囲んでいます。
柿葺屋根を銅板で覆った社は流造のもので、戸は三枚あります。
白山堂から右手の文殊池を見下ろす高台に鎮座する晴明堂。
大きな覆屋の下に安倍晴明をお祀りする社が祀られています。
社は平成16年(2004)、安倍晴明千回忌を迎える記念に200年振りに再建されたものと言う。
軒下に魔除けの呪符五芒星が輝いています。
如意宝珠を撫で、魔除け方位災難除けを祈願するものです。
晴明堂の西の天体観測の地に立てば、眼下に秋桜迷路や文殊池に浮かぶ浮御堂と境内、遠く耳成山と二上山を一望できます。
当所の安倍寺は、現在地から南西約300メートルの地にあり、法隆寺式伽藍配置の大寺院だったようです。この地へは鎌倉時代に移転しましたが、かつての鎮座地も視界に入っているのかもしれません。