大火砕流にのまれたカメラマン 重圧から娘を救った言葉
棚橋咲月
カメラマンだった父は、取材中に大火砕流にのまれた。遺族としての重圧に苦しんだ娘は、遺品のカメラを手に被災地を巡った。43人が犠牲になった雲仙・普賢岳(長崎県)の大火砕流から3日で30年。自ら撮った写真を多くの人に見てもらい、父を奪った災害を語り継いでいきたいと思う。
「罪悪感で押しつぶされそうだった」。亡くなった矢内(やない)万喜男さん(当時31)の一人娘、美春さん(31)は、そう振り返る。
万喜男さんはNHKのカメラマンだった。大火砕流が起きた1991年、中東で湾岸戦争の取材をした後、噴火活動が続く普賢岳で撮影を続けていた。美春さんは当時1歳だった。
母は父のことをあまり話さなかった。墓参りに行くと、祖母や親族から父の思い出を聞いた。
大火砕流では、報道関係者のほか、地元のタクシー運転手や消防団員らが犠牲になった。消防団員は、避難勧告のさなか取材を続ける報道関係者に注意を促して回っていた。成長するにつれ、報道関係者に向けられる厳しい目を知った。「殺人罪だ」「恥を知れ」。ネットにあふれる書き込みも目に入った。遺族であることが重くのしかかった。
母にもまた、思いがあった…