第1回「世界から30年遅れていた」長谷川誠が語る日本バスケの挫折と未来

有料記事日本バスケ 挑戦の30年

本間晋
写真・図版
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 高価なトレーニング機材、冷房が利いたバスケットボール専用のコートに流れるヒップホップ。国内トップアスリートが集う東京都北区ナショナルトレーニングセンターで、「日本バスケ界のパイオニア」と言われる長谷川誠さん(52)にこの夏、一枚の写真を差し出した。

 1997年に撮影されたその写真には、大男相手に果敢に切り込む長谷川さんが写っている。相手の背番号32はNBAの元スター選手、マジック・ジョンソン。引退したNBA選手らでつくる「マジック・ジョンソン・オールスターズ」との国際親善試合で、主力をそろえた日本代表は6戦全敗した。

 「世界のバスケットボールから30年遅れているなと、肌で実感した。引退したNBA選手が遊んでいても大敗しました」。長谷川さんは振り返る。

1990s - 2023 JAPAN BASKETBALL 日本バスケのパイオニアたち

1990年代のバスケブームから30年。この間、日本のバスケットボールを支えてきたパイオニアたちの物語

 1990年代の日本では、空前のバスケブームが起きていた。人気漫画「スラムダンク」などの影響もあり、競技人口が増え、バスケ由来のファッションが人気を集めた。一方で、本場アメリカと日本の実力差は大きく、「大人と子ども」と揶揄(やゆ)された。

 「あの当時はNBAの選手を知るとすれば、ビデオテープや月刊バスケットボールの記事だった」という。インターネットが少しずつ普及し始めた90年代後半。国内トップ選手であっても、当時の情報源は普通のバスケットボール好きと変わらなかったようだ。

 6連敗はしたが、親善試合が長谷川さんに与えた意味は大きかった。

 「まさかマジック・ジョンソンと試合ができるとは思っていなかったし、かなり刺激になった。代々木第一体育館に1万人くらい入った。当時、バスケの試合でそんなに観客が入ることはなかった」

 長谷川さんが、そして日本のファンがNBAの実力の一端に触れた1997年から、日本でBリーグが開幕にこぎ着けるまで、19年の月日が必要になる。「大人と子ども」の差を埋めるために。長谷川さんの挑戦が始まった。

日本バスケ界が活況だ。渡辺雄太八村塁のNBAでの活躍を経て、8月25日には男子W杯が開幕する。ただこの30年は苦難の歴史だった。それぞれの時代を引っ張った選手らの話からその道のりを振り返り、未来を展望する。第1回は長谷川誠さん。記事の後半では、初の海外プロ選手としての体験、秋田ノーザンハピネッツの立ち上げ、高校の後輩・田臥勇太さんのことなどについて語ってもらった。

「初の海外プロリーグ選手」が見た現実

 2000年に長谷川さんは海を渡った。アメリカのABA(アメリカン・バスケットボール・アソシエーション)のサンディエゴ・ワイルドファイヤに移籍、日本人初の海外プロリーグ選手になった。

 「シドニー・オリンピックの…

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