能登半島地震の初期の避難所の状況について、証言を集め、6月に報じた。
「まるで地獄絵図だった」。石川県輪島市のある指定避難所で運営にあたった住民の一人はこう語った。
朝食はせんべい、夕食は乾燥米などで、体育館や教室の床で寝起きした。新型コロナやインフルエンザなどの感染症が流行し、トイレから大便があふれた。似た状況が複数の避難所で起きていた。
取材しながら何度も考えた。なぜ、先進国の日本で被災者は過酷な避難生活を強いられたのか、と。
避難者は輪島市で約1万3千人、珠洲市で約7千人で、石川県の被害想定のそれぞれ約12倍、約9倍だった。両市の計画上の備蓄食料はそれぞれ5400食、9千食で、まったく足りなかった。しかも輪島市では48指定避難所のうち26カ所で備蓄がなく、「餓死の恐怖」を語る住民もいた。
政府は「史上最大規模」のプッシュ型支援をしたと胸を張るが、現地で活動したNPO幹部らは、食料は質量ともに問題があったと指摘している。床から距離を空けて感染症のリスクを下げる段ボールベッドも政府が送ったのは約7千台のみだ。
災害対策基本法は、避難所の設置を含めて住民の命を守る責任は市町村が負うと定める。今回のような大規模災害では、災害救助法の規定により、この責任が県に移る。
石川県の馳浩知事は、まさに…