被爆死した元宝塚俳優・園井恵子をしのぶ音楽朗読劇 盛岡で開かれる

三浦英之 聞き手・構成
[PR]

 戦時中、公演先の広島で被爆し、32歳で亡くなった元宝塚俳優・園井恵子の激動の人生を知ってもらおうと、市民団体「園井恵子を語り継ぐ会」が25日、盛岡市の「プラザおでって」で音楽朗読劇とコンサート「昭和の夏にあったこと」を開いた。会場満員の約150人が鑑賞。元宝塚の美郷真也さんや渓なつきさんらが出演し、夢に向かってひたむきに生きた名俳優の人生を演じた。

 美郷さんは「園井さんの思いを受け継いで、私たちも精進していきたい」とコメント。主催した同会の柴田和子会長は「園井恵子さんの人生を通じて平和を意味をかみ締める。これからもずっと続けていきたい」と話した。

     ◇

 俳優・園井恵子は、宝塚歌劇にとっていかなる存在か――。「宝塚歌劇の殿堂」に選ばれ、「レジェンド」と慕われる、演出家の岡田敬二氏(83)と作曲家の吉﨑憲治氏(90)に、兵庫県宝塚市で聞いた。

 岡田氏 一番大事なのは、岩手の片田舎から15歳の少女がたった1人で東北線に乗って上野駅に着き、東京駅から東海道線に乗って大阪を経て、阪急電車で宝塚にまでたどり着いたということ。その情熱です。

 でもその時にはもう、宝塚音楽歌劇学校(現・宝塚音楽学校)の入試は終わっていたわけでしょう? それでも、学校側はその情熱を受けて、特別に試験を受けさせ、入学を認める。そこには、初期の宝塚を支えていた創業者・小林一三氏の「ぬくもり」のようなものがあったのではないかと思います。小林氏や当時の関係者の愛情が、園井さんの夢を育み、守ったのではなかったか。

 吉﨑氏 今も昔も、夢を抱いて宝塚にやってくる生徒は本当に素直で熱心ですが、園井さんの熱意は特筆すべきもので、宝塚はそんな彼女の一途さを温かく大きな器で受け入れた。我々作曲家も演出家も、良い曲を作ろう、良い舞台にしようと常に努力しているが、当時のスタッフも園井さんの気迫にその気持ちをいっそう強くしたと思う。

 彼女にとって宝塚は夢を紡ぐ場所だけでなく、家族の生計を支える場所でもあった。気丈な彼女は多彩な役を見事に演じきり、宝塚の恩に報いたと思う。

 岡田氏 演出家の目から見ても、園井さんの人生は非常に劇的ですよね。夢を実現するために、東北の言葉を標準語に変え、必死にお芝居の稽古をし、宝塚を退団して映画で成功を収めた後も、演技を続けたいと国策演劇の慰問団として広島へ向かう。夢と抑圧、そして原爆。

 彼女は演ずることが大好きで、最期まで人々に演劇の素晴らしさを伝えたかったわけです。でも、それができなかった。彼女の無念を今こそ、一人でも多くの国民に、そして宝塚歌劇にかかわる人たちに知ってほしいと思います。

 吉﨑氏 私は園井さんの生誕110年を記念して「ふるさと 永遠(とわ)に」という歌の作曲をさせて頂きました。彼女の中にはずっと岩手のふるさとがあったように思う。また人一倍熱い思いで青春を捧げた宝塚は、第二のふるさとだったに違いありません。

 歌というものは、その人の心の深いところから湧き上がってくるもの。園井さんの根底にある二つのふるさとへはせた思いを歌い継ぐことで、岩手で暮らす人、宝塚歌劇を知る多くの人に、もっと園井さんの生涯を知ってもらい、彼女を愛してほしいと思います。

有料会員になると会員限定の有料記事もお読みいただけます。

※無料期間中に解約した場合、料金はかかりません