日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)に10日、ノーベル平和賞が授与される。核兵器が生み出されて約80年、核兵器をめぐる世界の状況と日本被団協のあゆみをたどる。
世界になお1.2万発が存在
世界には、今なお1万2千発以上(退役・解体待ちを含む)の核弾頭が存在している。その源流は、第2次世界大戦末期の1945年7月、米国がニューメキシコ州で行った史上初の核実験だ。
米国の核開発計画を指揮したのは、今年のアカデミー賞7冠の映画「オッペンハイマー」の主人公となった物理学者、ロバート・オッペンハイマー。核開発の成功を知ったトルーマン米大統領は3週間後、広島と長崎に原子爆弾を投下し、人類は「核の時代」に足を踏み入れた。
戦後、49年にソ連が初の核実験に成功すると、米ソの核開発競争が激化する。50~60年代には英国、フランス、中国が核保有国に加わった。70年には核不拡散条約(NPT)が発効し、米ソ英仏中の5カ国を「核兵器国」と認める代わりに核軍縮の義務を負わせたが、その後も核兵器の数は増え続け、ピークの80年代半ばには計7万発に達した。
一方で、世界中で核戦争への危機感が高まり、80年代には反核の機運も高まっていく。米国のレーガン大統領とソ連のゴルバチョフ書記長は85年、「核戦争に勝者はない」と合意。世界の核弾頭数は80年代半ばから減少に転じ、ゆるやかとはいえ核軍縮が始まった。米ソは87年、中距離核戦力(INF)全廃条約を結んで核兵器の削減に踏み切り、91年に第1次戦略兵器削減条約(START1)も締結された。
ただ、東西冷戦が89年に終結すると、今度は「核の拡散」が進む。98年にパキスタンが、2006年には北朝鮮が、それぞれ核実験に踏み切った。21世紀になり、核兵器削減のペースは鈍っている。
国際情勢が流動化する中、22年からウクライナに侵攻するロシアのプーチン大統領は核使用を示唆する「核の脅し」を繰り返し、23年2月には米国との新戦略兵器削減条約(新START)の履行停止を決めた。
中東では、事実上の核保有国であるイスラエルと、核開発を進めるイランの対立が深まっている。東アジアでも中国は核兵器を増やし、北朝鮮はミサイル実験を繰り返している。米国も、核兵器数こそ減らしているものの、核の近代化を進める。
こうした中でも、核廃絶の動きは粘り強く続けられている。17年に核兵器の保有や使用、威嚇を禁じた核兵器禁止条約が採択され、21年に発効した。署名国は100カ国近くになった。他方、自らは核を保有しなくとも「核の傘」に依存する国も数多く存在する。「唯一の被爆国」を自任する日本政府も米国の「核抑止」への依存を深めており、核禁条約のオブザーバーにも参加していない。
破られようとするタブーに歯止め 平和賞のメッセージとは
ノーベル平和賞は、アルフレッド・ノーベルの遺言に基づき、①国家間の友愛②常備軍の廃止や削減③平和会議の開催や促進といった三つの領域で貢献をした個人または団体に贈られる。
「世界で最も権威のある賞」とも言われ、選考するのはノーベル委員会に所属する5人のノルウェー人だ。そのため、北欧の外交の特徴である「理想主義と現実主義の混合物」を反映する受賞者が多い。
核兵器をめぐっては、「核なき世界」という人類の理想がある一方、安全保障上の「抑止力」になっていると訴える核保有国が存在し続ける現実がある。ノルウェーも北大西洋条約機構(NATO)の加盟国で、「核の傘」に頼っている。
平和賞はこれまで、核実験に反対する運動を展開した研究者、ライナス・ポーリング氏(1962年)や非核三原則を唱えた佐藤栄作元首相(74年)といった個人のほか、核戦争防止国際医師会議(85年)やパグウォッシュ会議(95年)、核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN、17年)などに贈られてきた。
今回の日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)の授賞理由は「核兵器のない世界の実現を目指して尽力し、核兵器が二度と使われてはならないことを目撃証言を通じて身をもって示してきた」というものだった。
今年就任したノーベル委員会のヨルゲン・ワトネ・フリドネス委員長は「記憶の継承」と「個々人がもたらす変化」を重視したと明かした。
また、ウクライナや中東において核兵器が使われるリスクが高まり、「使わせない、使わない」という強固な「タブー」が破られようとしていることも指摘した。
そんななか、誰よりも「タブー」の重みを知っている被爆者に対し、核廃絶に向けた動きを長らく評価してきた平和賞が贈られたのは、ある意味で必然だったと見ることもできる。
原爆被害、GHQが情報制限 当初は日本国内でも知られず
1945年8月6日午前8時15分、広島。9日午前11時2分、長崎。
この2発の原爆が、現在までに実戦で使われた唯一の核兵器だ。
広島市では当時の市人口約35万人のうち14万人が、長崎市では約24万人のうち7万4千人が45年末までに死亡した。被爆による死者のなかには、当時植民地だった朝鮮半島や中国、台湾、東南アジアからきた人や、米国を含む連合国軍の捕虜もいた。
生き残った被爆者も核爆発に伴う熱線、爆風によって重度のやけどを負っていた。外傷を克服しても、がんの発生率が高まるなど放射線の後障害にも悩まされた。被爆2世のなかには健康不安を抱える人もいる。肉体的な被害だけではなく、肉親を奪われたトラウマ、生活基盤を破壊されたことによる貧困、結婚や出産、就職をめぐる差別にも苦しんできた。
原爆被害は戦後10年近く、広く知られることはなかった。連合国軍総司令部(GHQ)の占領下で、「プレスコード」が敷かれ、新聞・出版が統制されたためだ。日本側が記録していた原爆写真も没収された。
52年4月、サンフランシスコ講和条約の発効により日本が独立を回復すると、検閲をくぐり抜けた原爆写真や被爆者の証言が世の中に出回るようになり、光があたるようになる。
きっかけとなった「第3の被ばく」
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