第4回広島中心部、生死分けた上着のボタン 「なんであんたが」浴びた怒声

【動画】原爆投下の際、たまたま防空壕に入っていた男性。「私だけ生きて申し訳ない」と語った A-stories「わたしもゲンだった」
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わたしもゲンだった 「はだしのゲン」連載50年

漫画「はだしのゲン」が6月、連載開始から50年を迎えます。原爆は広島と長崎の多くの子どもの命を奪い、生き残った子たちも「ゲン」のような壮絶な人生を余儀なくされました。

 米国が原爆を投下した時、広島と長崎の街には、たくさんの子どもたちがいた。

 「はだしのゲン」作者の中沢啓治さんもその一人。登校中、同級生の母親に話しかけられ、偶然背にした塀が原爆の熱線を防いでくれた。

 同じ瞬間。12歳だった三浦幹雄さん=広島市=も、一緒に作業していた同級生たちの中で、たった一人助かった。

 生死を分けたのは、小さなボタン。

 しかし、生き残った人生は苦しかった。

      ◇

 1945年8月6日の朝。

 中学1年の同級生約410人や先生たちと、広島市中心部にいた。建物を取り壊して延焼を防ぐ「建物疎開」の作業のためだった。

 周りの子と雑談をしながら、先生の点呼を待っていた時。上着のボタンが一つ、とれかかっていることに気がついた。

 校章入りで、「天皇陛下からの預かり物」と言われていた。

 「先生に見つかったら、殴られる。早くつけ直さないと」

 点呼の「代返」を友だちに頼…

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この記事を書いた人
黒田陸離
ネットワーク報道本部|大阪駐在
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地方取材、スポーツ、平和、人権
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