今は全てが大変な時期だからこそ「その環境で暮した人々が実際には何を考えていたか」後世になってから問われる展開を迎えそうです。例えば坂口安吾「日本文化私観(1942年)」みたいに…
記録は少しでも多く残した方がいいです。内容はなんでもよろしい。はてなブログを2010年代後半から続けて来た立場から言わせれば「後世の人間が今の時代の何に興味を持つかなど現時点でどんなに熟考したって判らない(そもそも後世の自分がその時点で何をどう感じるかすら不明)」というのが正直なところ。まぁ大雑把にまとめると「来年の事を言うと鬼が笑う」って話ですね。これまでの投稿で繰り返し触れて来た「人類の認識可能範囲外を跋扈する絶対他者」の絶対他者性は、まさにそんな「予測の絶対不可能性」によって担保されているのです。
例えば最近「ツイフェミの暴走」が話題ですが、どうしても連想してしまうのが「2010年代前半に国際SNS上の関心空間に屯した匿名第三世代フェミニスト等の大活躍」。
「ああした連中(1980年代にバーバラ・ウォーカーの地母神仮説に陶酔した狂信者の残滓だったりもする)」の暴走は海外でも当時からそう変わりないのですが、「こうした人々(男性賛同者も多く簡単に「彼女等」と要約出来ない)」がそれにどう対抗してきたかについて何気なく2010年代後半に残した記録が、今読み返すと大変面白かったりして…
竹宮ゆゆこ「とらドラ!(原作2006年〜2009年、アニメ2008年〜2009年)」における櫛枝実乃梨の台詞「私の幸せは…自分の手で掴み取る…何が自分にとって幸せかは…自分で決める!!」…2010年代前半、国際SNS上の関心空間に匿名で滞留する女子アカウントの間には、共闘の都合上伝統主義者の家父長制を受容したウルトラ・フェミニストの暴論に対してこれで返すコンセンサスが存在していたのです。
「うる星やつら(1978年〜1988年)」には「怪奇/オカルト/超能力/超古代文明/UFOブームをパロディ化したスラップスティック・コメディ(1970年代)」から「ラブコメ路線(1980年代)」への転身を見事に果たしたという偉大な側面もあるのだが、海外にそこまでの認識はない。
今日なお話題とされ続けているのは「男装女子」藤波竜之介と「女装男子」潮渡渚とのラブストーリー辺りだったりする。
*まぁ「高橋留美子=トランスジェンダーの旗印」という立脚点から作品を再読するとそういう事になるのも分からないではない。確かに潮渡渚の「あら女なの? でも問題ないわ」が漫画化されたばかりかアニメ化もされているというのは、その筋の人間にとっては国際的に途方も無い事だったりする。「ストップ!! ひばりくん!(1981年〜1983年)」の海外における高評価は、何と言っても江口寿史個人の画力の高さによる部分が大きい。現実には当時における「作画過程での凝り過ぎ」、およびなまじ当時国際的観点から見ても斬新だったパースペクティブを確立した事による「それをどう活かせばいいか分からず脳内がWhite Outする」現象との直面がこの作品を連載中止に追い込んでしまった訳だが、むしろ欧米人の観点においては、かかるジレンマと正面から向き合った事こそがまさに「(破滅を恐れず内側から込み上げてくる衝動に誠実に生きようとする)ロマン主義」なのであって、凡人ならそもそもそんな高みまで到達し得ないものとされている。こうした認識があるからこそ海外には江口寿史の熱狂的心酔者が少なくない…
「らんま1/2(1987年〜1996年)」に至っては、今日なお第三世代フェミニストが「男性に勝利する為に女性は一切の女性らしさを放棄せねばならぬ」と主張する旧世代フェミニストを打倒する際においての最も重要な武器の一つとして機能し続けている。なにしろ早乙女乱馬なる男、女体化した時は容赦なく平然と「女性としての武器」を無制限に使いまくるのである。
もちろん実際の高橋留美子や江口寿史はエンターテイナーの本懐に従って「そういう描写が読者に受けるので、どんどん増やしていった」に過ぎず、別に未来におけるLGBTQA方面の発展を意識した訳でもなく、当時なりの時代的制約もそれなりに受けている。
とはいえ肝心なのは「前に向けて進み続ける」事だけで、皮肉にもこの路線の最終勝者となったのがロバート・ダウニー・Jr.演じるトニー・スターク=アイアンマンだった辺りの意外性…
- それまでの魔法少女ものにおいては「自分が普通の人間でない事」をカミングアウトする事が徹底してタブー視されてきたが、こうしてLGBTQA文化との融合を果たす過程でその側面が次第に形骸化されていく。
- 流れの先陣を切ったのがアラン・ムーア原作「ウォッチメン(Watchmen、1986年〜1987年)」でありカミングアウト問題はロバート・ダウニー・Jr.演じるトニー・スタークの「I'm Iron Man」宣言のカタルシスへと結びついていく(2008年)。
まさにカミングアウト問題を巡って「魔法少女の世界」と「アメコミヒーローの世界」が邂逅した瞬間。そして「魔法少女まどかマギカ(2011年)」の国際的ヒットを受けて「髭面の魔法少女」なる新たな運動のシンボルが爆誕…
スペル違うけど、もしかしたらここでいう(ハイデガー用語における)真理(Aletheia)って王子様の助けを待つだけの姫君ではなく、自ら考え、行動する、やさしさと勇気と知恵を兼ね備えた、新しいヒロインを目指したダイアナ・コールス「アリーテ姫の冒険(The Clever Princess、原作1983年、片渕須直監督によるアニメ映画化2001年)」のヒロインたるアリーテ姫(Princess Arete)の名前の由来だったりする? 少なくとも冒頭「魔法は人間の手が生み出すものなのだから、全ての人間の手にそれを成し遂げる可能性があるはず。この私の手にだって…」なる姫の独白から始まり、彼女の「全てに受動的な大人の女性というステレオタイプな精神的牢獄」からの脱獄が描かれるこの物語もまた「真理(Aletheia)の顕現」を扱っている事実は動かないのである。
原作が「フェミニズム童話のマスターピース」と呼ばれているせいかディズニーが配給を手がけたせいか、片渕須直監督映画「アリーテ姫(Princess Arete、2001年)」は、CLAMP「ちょびっツ(原作2000年〜2002年、TVアニメ化2002年)」や広江礼威「BLACK LAGOON(原作2001年〜、アニメ化2006年〜2011年)」や「マッドマックス 怒りのデス・ロード(Mad Max: Fury Road、2015年)」と並んで「国際SNS上の関心空間に集まる第三世代フェミニスト」の基礎教養にしっかり組み込まれている。その支持者にいわせればアリーテ姫や「ちょびっツ」におけるちぃ(Chi)や「怒りのデス・ロード」における逃げ出した妻達(Wifes)の様な「救済を待つ姫君」タイプも「BLACK LAGOON」のレヴィや「怒りのデス・ロード」におけるフュリオサ・ジョ・バッサの様な「女戦士タイプ」も女性の心を幽閉するステレオタイプの精神的牢獄の囚人に過ぎず、真に目指すべきは任天堂ゲーム「メトロイドシリーズ (Metroid series、1986年〜) 」におけるサムス・アラン(Samus Aran)の様な「あらゆる事について自分の心だけに基づく正しく判断が下せる自由人」なのだという。
*米心理学者ダン=カイリー(1942年頃〜1996年)が提唱した「ピーターパン・シンドローム(Peter Pan Syndrome, 1983年)」や「ウェンディ・ジレンマ(Wendy Dilemma, 1984年)」においては「ピーターパン」に登場するティンカー・ベルに割り振られた役割だった。しかしながら「PIM(Personal Information Manager)/スマフォ(Smart Phone)」世代においてティンカーベルは、良い意味でも悪い意味でも「色々可愛がれるポケットサイズのお友達」以上の扱いを受ける事がなかったのである。新たなるマン=マシン・インタフェース環境への示唆? そういえば「テクノバンドの始祖」クラフトワーク(Kraftwerk 1970年〜)が用いた「The Man-Machine System」なる用語の和訳は「人間解体制度」でしたね。音楽的にはスペイン出身音楽家ヴァンゲリスの「ブレードランナー」テーマ曲やカール・セイガン「コスモス宇宙」が席巻した時代…
そんな第三世代フェミニスト達の力の主要加速剤は実際にパワードスーツの如き外挿的テクノロジーの発展であり(はからずしも溶接技師の資格がダンサー志望のヒロインの普段の生活を支えるエイドリアン・ライン監督作品「フラッシュダンス(Flashdance, 1983年)や、「面目失墜後」港湾労働者として働く「エイリアン2(Aliens 1986年)」のリプリー元航海士のクライマックス場面での無双もこれに由来する)、だからこそ彼女達は(そのテクノロジーの暴走がもたらした)メトロイドを心から完全否定する事も出来なかったが(実際「メトロイド」シリーズには、サムス・アランが殲滅戦からベビーメトロイドを救い、そのベビーメトロイドを海賊連合に盗まれた事が新たな火種となる展開もある)、その立場ゆえに「それって家事オートメーション化によって拘束時間が大幅に短縮した主婦だけの問題?」と鋭く問い質してきた。が今から思えばまさにこの展開こそが明らかに面白かったのである。
- 世代的にいうと子供時代に武内直子「美少女戦士セーラームーン(原作世代1992年〜1997年)」に邂逅した世代の次の世代で、幼少時視聴して感動した作品として「プリンセスチュチュ(Princess Tutu,2002年~2003年)」を挙げる人も多かった。いわば日本で「セカイ系」が取り沙汰され、それが「空気系」に推移していった時代とパラレルに海外ではこういう世界観が成立していたという話。
流石に最近は国際SNS上の関心空間も世代交代が進んで(そもそも当時フロントエンドだったTumblerの衰退が著しく)この頃の熱狂など片鱗も残ってないのですが(実は同じ2010年代でも後半には既に新たに参入してきた若手のフェミニズム第三世代が同じ内容をLedgends of KorraやSteven Universeに立挙して語る様になり、上掲の様な教養=ディスクールは「2000年代に活躍した旧世代のもの」と目される様になっていた)、こうしたムーブメントに実際に参加した当事者として「そういう時代もあった」という歴史的事象だけは後世に語り継いで行きたいと改めて誓った次第…あの時心に宿った炎は、まだ全然消え去っちゃいないんだぜ?