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#4454 われもまた吉良の齢を過ぎたれば浅野の青き未熟を悪めり
令和6年12月14日(土) 【旧 一一月一四日 赤口】 大雪・「熊蟄穴(くまあなにこもる)」松に月義士討入の日なりけり ~安住敦(1907-1988) 元禄15年12月14日(1703年1月31日)は赤穂浪士が本所吉良邸に討ち入った日。したがってこの俳句では「討ち入りの日」が冬の季語に
#4086 名にしおふ今宵の空の月かげはわきていとはんうき雲もなし
令和5年12月14日(木) 【旧 一一月二日 赤口】・大雪 熊蟄穴(くまあなにこもる)名にしおふ今宵の空の月かげはわきていとはんうき雲もなし ~吉良義央(1641-1703)Photo:歌川広重「忠臣蔵 夜討三 本望」静岡市東海道美術館蔵 ~Artagenda 「赤穂事件」とはおそらく江戸
西尾市吉良町にある岡山陣屋は、高家吉良家の陣屋で、別名を吉良陣屋跡、椿陣屋とも言います。天正年間に吉良義定が居館を築いたのが始まりとされています。義定の母は松平広忠(徳川家康の父)の妹であり、家康にとっては従兄弟にあたります。嫡男・義弥は、関ヶ原の戦いで東軍に属して領地を安堵され、その跡は義冬が継ぎました。義冬の嫡男が吉良義央。吉良義定吉良義安の子。母は松平清康(家康の祖父)の娘であり、徳川家康と...
吉良氏は、足利義氏の長子長氏を祖とし、所領の三河国幡豆郡吉良荘(愛知県西尾市吉良町地区)から吉良を名乗りました。室町時代には、足利氏一門諸氏の中でも家格が高く、足利将軍家に次ぐ待遇を受ける足利御三家の筆頭に位置付けられ、幕府要職を歴任。「御所(将軍)が絶えれば吉良が継ぎ、吉良が絶えれば今川が継ぐ」と俗に言われ、同じく足利一門である三管領家(斯波氏・細川氏・畠山氏)より家格・格式は上位であったといい...
慶長5年(1600)に吉良義定によって父・義安の遺徳をしのぶため建立された華蔵寺は、吉良家の菩提寺と定められました。吉良家墓所吉良家墓所には義安から義央の継嗣・義周までの吉良家6代の墓があります。高家に任ぜられた義弥が、本堂西側に父・義定の供養のための石塔を建てて以降、歴代吉良家当主の石塔と子供たちの石塔をその周囲に建て、このような墓所となったそうです。毎年、吉良の命日である12月14日には毎歳忌(まいさ...
西尾市吉良町の華蔵寺(けぞうじ)に向かいました。「吉良の里にようこそ」の看板が見えてきます。山号を片岡山(へんこうざん)といい、吉良上野介義央の曾祖父である吉良義定が旗本として吉良家を再興した際に、父・義安の菩提を弔うために慶長五年(1600)に創建した臨済宗寺院です。 本堂吉良義央寄進の梵鐘にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。応援よろしくお願いします!にほんブログ村歴女日記ブログラン...