涙と愛の物語:常盤御前と伏見奉行所の知られざる繋がり


伏見奉行所が語る、愛と戦いと再生の歴史ドラマ」の続きです♪


ちょっと見てください。この↓石垣!伏見奉行所の石垣がこうして今も残っているんです。これって感動しませんか?だって、もしかしたらあの小堀政一(遠州)がこの石垣に触れ、「うむ、なかなかの出来栄えじゃ」と満足げに撫でたかもしれないんですよ?そう思うと、私も「遠州が撫でたかもしれない石垣を、自分も撫でてみたい!」って気分になりますよね。

ただし、問題がひとつ。この石垣、草がボーボーなんです。いや、もう見事に生い茂ってて、「この草たちは石垣のボディガードか!」ってツッコミたくなるくらい。触りたくても、まるで「無許可で触れるな」と言わんばかりのガード力で、とても手を出せる雰囲気じゃありません。江戸時代の人たちが見たら、「せっかく作った石垣、草まみれかい!」って驚くかもしれませんが、それもまた時代の流れというものでしょう。

伏見奉行所

でもね、草をかき分けてでもこの石垣を撫でてみたくなる気持ちは、きっと歴史好きの皆さんなら共感してくれるはず。だって、こうした遺構が目の前にあるだけで、遠州の時代の息吹を感じることができるんですから。それがどれだけ貴重でロマンあふれることか!

結局、草が生えていようがいまいが、この石垣が語る歴史の重みは変わらない。むしろ、この草たちが石垣を守ってくれているおかげで、今もこうして私たちがその存在に触れることができるのかもしれませんね。なんだかんだで、草にも感謝しないといけない気がしてきました。




さて、焼き払われた伏見奉行所の跡地はその後どうなったのでしょうか?

明治新政府がやってきて、伏見奉行所跡地は再び脚光を浴びることになります……が、その理由がちょっと物騒。「フランス式の陸軍士官養成をするぞ!」と伏見練兵場が開設され、国民皆兵の号令のもと集められた「伏見親兵隊」の兵士たちは、戊辰戦争に従軍。東海、北越、函館と、いろんな戦場に送り込まれました。

その後、1871年には兵部省直属の「親兵」に改編され、伏見奉行所跡地は今度は陸軍伏見工兵第16大隊の敷地に。これで終わりかと思いきや、1936年には「工兵第16連隊」に改称。そして、運命の1945年、大東亜戦争の終戦後、この土地は米軍に接収され、米軍駐屯地として利用されることに。いやもう、時代の変化に振り回されすぎて、土地もびっくりですよね。

しかし、ここで物語は再び転換します。1958年、米軍から日本に返還された跡地に建てられたのは、なんと京都発の大規模団地「京都市営桃陵団地」。まさか、かつての伏見奉行所跡地が、兵士たちの練兵場を経て、最後は団地として住民の生活を支える場になるなんて、誰が想像したでしょうか?

考えてみれば、この土地は本当に「歴史の舞台裏」を象徴しているような場所。かつては徳川幕府の要所であり、次には新政府の軍事施設、さらに戦争の名残で米軍に接収され、最終的には市民のための住居地へ。こうやって何度も用途を変えながら、その時代ごとの日本を映してきたんですね。

それにしても、伏見奉行所の華麗な庭園を楽しんでいたであろう江戸時代の人たちが、この土地が軍事施設や団地になる未来を知ったら、どんな顔をするんでしょうね。「なんで庭園が団地に?」って絶対びっくりするに違いありません。でも、それが時代というものなのでしょう。

そう考えると、私たちが普段目にする土地や建物も、いつの日か全く別の用途で使われることになるのかもしれませんね。今はただの団地に見えても、実はとんでもなくドラマチックな歴史を背負っている場所だったりする。だからこそ、ちょっとした場所にも想像力を働かせて、その背景に思いを馳せるのって面白いと思いませんか?


伏見奉行所

さて、ここはかつて伏見奉行所があった波乱万丈の土地。しかし、さらに深い歴史が隠されています。この地は、平治の乱で敗れた源義朝の側室であり、三人の幼い子どもを連れて逃げ続けた、あの源義経の母・常盤御前が捕らえられた場所でもあるのです。その事実を今に伝える石碑が静かに佇んでいます。

常盤御前——その名は歴史に刻まれる美しさと悲劇の象徴。子どもたちの命を守るために、自らの運命を清盛に捧げたその決断。彼女がこの地で捕らえられたとき、胸中にはどれほどの恐怖と絶望が渦巻いていたことでしょう。そして、それ以上に、幼い子どもたちを守り抜きたいという母としての強い想いがあったに違いありません。

この場所に立つと、彼女がどんな思いでここに佇んでいたのかを想像せずにはいられません。涙をこらえながら、必死に冷静さを保ち、子どもたちの未来のために清盛の妾となることを決意した。その覚悟、その愛の深さが、この土地に刻まれているように感じます。

この地は、ただの石碑が残るだけの場所ではありません。常盤御前という一人の母が、愛と犠牲によって子どもたちを守ろうとした物語が、静かに息づいている場所なのです。彼女が抱えた恐怖や涙、そしてその奥にある強い愛情が、この土地を特別なものにしています。

京都という町は、こうした歴史の断片が至るところに散りばめられています。過去の人々がどんな思いでこの土地を歩き、どんな人生を送ったのか。それを知るたびに、私たちは時代を超えて彼らの想いに触れることができるのです。

この地で立ち止まり、彼女の物語に思いを馳せると、自然と心が揺さぶられます。ここが、彼女の涙と愛の物語が始まった場所——そのことを静かに感じながら、この土地を訪れるのもまた特別な体験ではないでしょうか。

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伏見奉行所が語る、愛と戦いと再生の歴史ドラマ


ここは、かつて伏見奉行所があった場所です。今では、ひっそりと佇む石碑と看板が、その豊かな歴史を静かに語っています。

伏見奉行所の物語は、豊臣秀吉が伏見城を築いたことで始まります。その城下町として発展した伏見町は、周辺の8つの村を巻き込んで、安土桃山時代から江戸時代初期にかけて商業と交通の一大拠点となりました。伏見城が廃城になった後、徳川幕府はこの地に伏見奉行所を1624年(寛永元年)に設置しました。単なる地方行政の拠点ではなく、伏見港の管理、西国大名の監視、そして京都御所の警備まで担当する、いわば「超多機能役場」だったわけです。

伏見奉行所


そして、ここで主役登場!初代伏見奉行に任じられたのが、小堀政一(遠州)。この方、ただの役人じゃないんです。茶の湯、和歌、書、画、さらには作庭までこなす超ハイスペックな文化人。伏見奉行所を移転した際には、自ら茶室や庭園をデザインしちゃうという、今で言う「DIYの達人」ぶりを発揮しました。「松翠亭」「転合庵」「成趣庵」という茶室や、伏見城の礎石を使った庭園など、見事な景観を次々と作り上げたそうです。

そして驚くべきは、あの徳川家康がこの風雅な奉行所を訪れた際、遠州のお茶を楽しみ、その庭園を絶賛したというエピソード。さらに3代将軍徳川家光も上洛の際にここを訪れ、同じく遠州の茶と庭を堪能したとか。将軍クラスをもてなすおもてなし力、恐るべし遠州!

そして何がすごいって、この伏見奉行所、ただの「お役所」ではなく文化的社交場としての顔も持っていたこと。遠州は20年間の奉行職在任中、京都や畿内の役人たちを招いて24日間の茶会を開催したこともあったとか。もはや公務の域を超えた優雅なひとときだったんでしょうね。いやいや、これぞ「お役所仕事」の極み。笑

ちなみに、ここに立つと「かつての庭園、散策してみたいな」と思わず妄想が膨らみます。当時の風景を目にすることはできませんが、遠州の手がけた庭や茶室がどれほど素晴らしかったか、想像するだけでわくわくしちゃいますよね。

伏見奉行所

1867年、王政復古の大号令が発せられた後、伏見奉行所はあっさり廃止され、まさかの「空き家」状態に。しかしその静寂も束の間、12月16日には新選組が会津藩兵とともに「伏見鎮撫」としてここに入居しました。

ところが、わずか2日後の12月18日、事件が発生。新選組局長・近藤勇が二条城から伏見街道を騎馬で帰る途中に狙撃され、右肩に重傷を負うという衝撃展開。この衝撃的な展開に、幕末の動乱と新選組を取り巻く緊張感が一気に浮かび上がります。負傷した近藤が伏見奉行所へ逃げ戻る様子を想像すると、その劇的なシーンには、ドラマを超えた現実の重みを感じずにはいられません。

襲撃の首謀者は、11月の油小路事件で新選組に暗殺された伊東甲子太郎の一派でした。彼らは薩摩藩伏見屋敷に匿われており、復讐の機会を狙っていたといいます。

伊東甲子太郎の暗殺も、また興味深い点を含んでいます。新選組は酒宴を催し、伊東を泥酔させた上で暗殺するという手法を用いました。この方法は、かつて芹沢鴨を殺害した際と同様です。このような暗殺の手法から見えてくるのは、新選組という組織が「駒として都合よく動けない者」を排除する冷徹な一面です。

幕末の日本は、混乱と焦燥が支配する時代でした。新選組もまた、時代の波に翻弄されながら生き残りをかけて行動していたのです。その中で行われた近藤勇の狙撃事件や、内部の粛清的な行為は、単なる事件ではなく、時代そのものを映し出す鏡のように思えます。


その後の展開も波乱万丈。12月30日には尾張藩士2人が訪れ、伏見奉行所からの退去を新選組に要求。年明け1868年、ついに鳥羽・伏見の戦いが勃発します。この時、新選組の指揮を執ったのは、負傷治療中の近藤に代わり副長の土方歳三。薩長軍との激しい戦いが繰り広げられました。

しかし、官軍による激しい砲撃の結果、ついに伏見奉行所は炎上、跡形もなく焼失してしまいます。その後、幕府軍は淀方面へと退却。戦火が残したのは、焼け跡と悔しさだけでした。

ここで、ふと思うんですよ。「もし鳥羽・伏見の戦いがなかったら、今頃この地で小堀遠州が手がけた素晴らしい庭園を散策できてたんじゃない?」と。歴史の「もしも」を考え始めると、なんだか勿体なくてたまりません。遠州の名庭を訪れ、茶室でのんびりお茶を楽しむ……そんな優雅なひとときがあったかもしれないのに、戦争のせいで全部台無しですよ!

それにしても、この伏見奉行所の運命の過酷さよ。築かれた時は栄華を極め、家康や家光をもてなした場所が、わずか数百年後には炎に包まれて消えていく。歴史って、ほんの一瞬で変わるんですよね。(続く)

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焼け野原から生き残った京料理屋『魚三楼』が伝える戦争の記憶


争いごとって、本当に戦争だけじゃないんですよね。学校、職場、近所──どこにでもある、くだらないいざこざ。傍から見ると、「いや、これアホらしくない?」と思うのに、当事者たちは真剣そのもの。だけど、掘り下げてみると、彼らなりの事情や感情が見えてきて、「あー、そういうことね」と思わされることもあるから厄介です。

そして、そんな争いが人類の歴史のど真ん中にあるんだから、なおさらややこしい。
たとえば戊辰戦争。大政奉還が行われて、「よし、これで平和ね」となるかと思いきや、新政府が徳川慶喜の官職や領地を取り上げようとして「ちょっと待った!」と反発。それが鳥羽伏見の戦いから戊辰戦争へと発展するわけです。

いやいや、そもそも大政奉還って、「ほら、新しい政府さん、あとはよろしく」って意味じゃなかったんですかね?「官職も領地もそのままでいいよね♪」なんて都合のいい話があるわけない。でも、人間って不思議なもので、「いざ自分のものを取り上げられる」となると、「ふざけんな!」と感情が爆発する。これが人情なんでしょうか。

で、慶喜ですよ。威勢よく「討薩の表」なんてお触れを出しておきながら、「これ無理ゲーじゃん」と早々に悟り、さっさと逃亡。戦い開始から数日で新政府軍が勝利し、江戸城を明け渡して隠居。いやいや、「早すぎる降参!」ってツッコミたくなりますよね。

でも問題はここから。大将がトンズラしたのに、旧幕府軍がその後も約1年半も戦い続けるという謎。もう、「これ何のために戦ってるの?」って感じですが、たぶん意地とか感情とか、そんな曖昧なものに突き動かされてたんでしょうね。だって、人間ってプライドが絡むと止まれない生き物ですから。

それに、攻めている側も徹底的。相手が土下座して「私が悪うございました!」と靴を舐めるぐらいの恭順を示さない限り許さないし、攻められる側も「だったら少しでも損害を与えてやる!死ぬなら華々しく!」と思い始める。この悪循環が、争いを終わらせないんですよね。

結局のところ、争いはなくならない。だって人間は感情とプライドで動く生き物ですから。それが歴史であり、現代であり、私たちの日常でもあるんだな……と、改めて思わされるわけです。いやもう、ほんとややこしい!

鳥羽伏見の弾痕


鳥羽伏見の戦いといえば、北に新政府軍、南に旧幕府軍(会津藩+新選組)の構図で展開された市街戦ですが、これ、民衆にとっては本当に迷惑極まりない話ですよね。伏見の街の南半分が焼失し、跡地は焼け野原に。いや、戦いたい人たちだけでどこかリングでも借りてやってくれよ!と、当時の庶民たちは思ったに違いありません。そして、いつの世もこうした争いで犠牲になるのは庶民たちなんですよね。

そんな焼け野原の中で、一つの奇跡がありました。京料理の名店「魚三楼」さんの建物が、なんと焼失を免れたんです!これってもう奇跡以外の何物でもないですよね。「さすが老舗、神に守られているのか…」と思わず感動してしまいますが、実際には外壁に弾痕が残るという生々しい傷跡も。当時の混乱と恐怖を想像すると、胸が締め付けられるようです。見るとちょっと背筋がゾクッとするけど、その傷跡が「戦争の愚かさ」を今に伝えているのかもしれません。

鳥羽伏見の弾痕


現在、この「魚三楼」さんの建物は京都市の「歴史的風致形成建造物」として保存されているのですが、その弾丸跡が何とも痛々しい。まるで「戦争なんて、もう二度とするなよ」と無言で語りかけてくるような気さえします。

しかし、新選組ですよ。あの新選組が「魚三楼」の前に布陣し、最新型の西洋式銃で武装した新政府軍に白刃で斬り込んでいったとか。いや、気迫がすごすぎる!ドラマや映画ではカッコよく見えるけれど、現実に想像するとゾッとしますよね。命がけなんてレベルじゃない。

この外壁に残る頑丈な木枠。それを貫いた無数の弾丸跡を見ていると、当時の激しさが生々しく伝わってきますよね。「これ、もし体に当たってたら…」なんて想像すると、恐ろしいなんてもんじゃない。いやもう、怖いとかじゃなくて、完全にアウト。アウトオブアウトです。

木枠でさえこんな状態にされるんだから、人間の体なんてひとたまりもなかったでしょうね。

ところで、この「魚三楼」さん、鳥羽伏見の戦い当時は官軍(新政府軍)の台所番を務めていたそうです。いやいや、戦場のど真ん中で京料理を提供していたなんて、これまたすごい話!戦火の中で京料理を振る舞う姿を想像すると、「どんだけプロ意識高いんだ」と感心せずにはいられません。もしかして、新政府軍もこの料理に支えられて戦っていたのかもしれませんね。

鳥羽伏見の弾痕


「魚三楼」さんの歴史を少し紐解いてみると、江戸時代の明和元年(1764年)創業というから、もう息が長いどころじゃない!当時は各藩の大名屋敷の料理方も務めるなど、食のエリートコースを突き進んだお店。そして鳥羽伏見の戦いという歴史の嵐をくぐり抜け、今もなお営業を続けているなんて、これぞ「本物の老舗」ですね。

特にこのお店が誇るのは、伏見の銘水「伏水」。お茶を淹れ、出汁を引き、米を炊き上げ、地酒にぴったりの旬の京野菜とお魚さんを使う。これぞ京料理の真髄!250年以上の伝統を味わえるなんて、もはや一度は訪れるべき「食の聖地」と言えるのではないでしょうか。

ふと、お魚大好きな夫の誕生日に、京料理の老舗「魚三楼」さんいいんじゃね、と思いついた私。「これ以上のチョイスはない!」と意気込んだものの、ふと我に返りました。だって私、肉も魚も苦手なんですよ。「最悪の場合またお米だけ食べてしのぐか(失笑)」なんて、勝手に自分の役割を諦めモードで考えました。

でもね、ここで思わぬ展開が。お店のHPをチェックしてみたら、なんと!「プラントベースコース」なるものを発見。植物由来の原材料だけで作られたコース料理があるじゃないですか!魚料理屋さんなのに、私みたいな人をもちゃんと想定してくれているなんて、これはもう感動のひと言。

しかも、プラントベースですよ?肉も魚も使わないけど、その代わりに京野菜や伝統の出汁をふんだんに使って、見た目も味も贅沢なコース料理が楽しめるらしい。私向きすぎてびっくりです。魚料理屋さんって、正直「魚好きしか来ない」ってイメージありませんか?でも、この柔軟性。250年以上続く老舗がこの現代にしっかり対応しているあたり、老舗の底力を感じます。お値段は税込み18,975円…まあ、庶民の行くファミレスとは一線を画す価格ですが、歴史を感じる空間でいただく極上の料理、その価値は十分にありそう。

伏見の焼け野原から生き残り、歴史を見守り続けてきた「魚三楼」。そこに足を運ぶことで、食を通じて歴史の重みと人間の愚かさ、そして食文化の素晴らしさに触れることができるのかもしれませんね。

鳥羽伏見の弾痕

さて、話を戻しますが、戦争に限らず、学校、職場、近所でのいざこざまで、揉め事って本当にアホらしいと思うんですよね。しかも、揉め事が好きな人たちって、どうしてあんなに執念深いんでしょうか?こちらは「平和に暮らしたいだけなんですけど」と静かにフェードアウトしようとしているのに、「待て待て、まだ話は終わってない!」と粘着してくる。いやいや、そんなに追い詰められたら、こっちもさすがに反撃せざるを得ませんよ。

結局、戦いに巻き込まれるって、こっちの意思とか全然関係ないんですよね。争いごとって、「揉めたくない人」より「揉めたい人」のエネルギーが勝つ瞬間に起きるんだなと、しみじみ思います。

これが世の中の難しいところ。全員が「争いとかゴタゴタとか、もう本当に勘弁してくれ。楽しく幸せに暮らしたいだけなんだ」と思ってくれたら、どんなに平和か。でも、現実にはそうじゃない。「支配してやる!」「俺が絶対正しい!」と信じて疑わない人たちが、これまた一定数いるわけで。そりゃあ、戦いがなくなるわけがない。

要するに、世界が平和になるには、全員が「揉め事なんてごめんだ」と思うようにならなければいけない。でも、残念ながらその可能性は限りなくゼロに近い。だから戦いは続くんです。永遠の課題ですよね、これ。

そこで大切なのは、少なくとも「こいつにちょっかいを出したら絶対ヤバい」「触らぬ神に祟りなし」と思わせること。つまり、戦いを避けるための抑止力です。私はというと、追いかけてくる揉め事好きな人たちから逃げるために、ひたすらダッシュスキルを磨いています。笑

でもね、逃げ切れないときのために、ガンカタも練習中なんです。え?ガンカタって何かって?それはまあ、映画で見るあの「華麗でカッコいい戦闘アート」ですね。笑

あとはあれですか、参考文献(?)として「高校事変」シリーズも読んでます。え?なんですかその目は。笑 なっ、なにか?ww だってあのシリーズ、普通の高校生活の枠を完全にぶち壊してくれるんですよ。読むたびに「なるほど、こういう発想もアリなのか」と、現実離れした展開に妙に感心しちゃうんですよね。いや、もちろん参考にするのはストーリーじゃなくて、キャラクターの決断力とか行動力の部分ですから!……たぶん。笑


とはいえ、問題は国家レベルですよ。もし自分の所属する国家そのものが国民を追い詰めにかかってきているとしたら、これはもうどうしたらいいんでしょうね?法改正を繰り返して、気づけば外堀が埋められているような感覚、ありませんか?いや、気のせいならそれでいいんですけど……少し不安になりますよね。

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高札場跡、ここがそう?看板も石碑もない現代の歴史散歩


Googleマップ、ほんとに凄いですね。あまりの精度に驚かされるばかりです。そんな私、「高札場跡」という気になるスポットを地図上で発見。一本先の道を通る予定だったのですが、「ちょっと寄り道してみよう」とワクワクしながら現地へ向かいました。

さて、高札といえば、奈良時代から始まった人民統制の象徴ですよね。江戸時代には「キリシタン禁止」「火事注意」なんてお達しが掲示されていたとか。じゃあ、この「高札場跡」はいつの時代のものだったんだろう?石碑とか説明看板とかがあるのかな?なんて期待を胸に到着しました。

高札場跡


が!見ても見ても…ない。何もない。何度確認しても、ここがその場所らしいのに、目印らしいものが一切ないんです。周りを見渡しても、石碑なし、看板なし、草一本さえも、なにもかもが「いや、ここ何も知らんで?」みたいな顔をしてる。

何もない。いや、本当に何もない。「ここ、どのへんが史跡なの?」っていう、謎解きゲームが始まる始末。

「おかしいなぁ」と改めて地図をじっくり確認すると…どうやら「高札場跡」は現在、道路のど真ん中だったらしいです。笑 え、マジ?ここ車道ですけど?立ち止まって見上げても、空には青い空しかないし、足元はアスファルトが広がるばかり。

高札場跡


おまけにここ、思った以上に車の往来が激しい。もう、『車が通らない瞬間なんてあるの?』って思うくらい。でも、粘り強さとタイミングが勝負!車がいなくなる一瞬を狙って、ようやく撮れた奇跡のワンショット↓です。もうこれ、撮影というよりもはやスナイパー気分でした。笑

つまり、これ、Googleマップがなければ誰も気づかない、いや、そもそも存在すら知らないであろう史跡なわけです。思わず「これが現代の高札場か」と感慨深くなるかと思いきや、何もない風景にちょっと虚しさすら感じました。

でもね、そんな「何もない」場所に立ってみると、逆に「これが本来の日本の史跡なのかも」と妙に納得してしまう自分がいました。日常の喧騒の中に、静かに埋もれる「高札場跡」。看板ひとつ立てる余裕すらない狭いスペースに、過去がひっそり息づいている。これだけ往来が多いからこそ、ここがかつて高札場だったんだなと、不思議な説得力を感じます。

高札場跡

けれど、それを知る術はGoogleマップのピンひとつ。現地では、「ここが何か?」と聞いても誰も答えられないほど、あまりにも何もなさすぎて、逆におかしくなってくる。歴史の重みがあるはずなのに、目の前には車と人がせわしなく行き交う現代。静けさどころか、クラクションの音が響く中で「史跡」を感じるのって、これぞ日本的なギャップ体験かもしれませんね。

でも考えてみれば、こうしてGoogleマップのおかげで、歴史の痕跡に出会えるというのも面白いですよね。地図一つで現代と過去をつなぐ旅。Googleマップがなかったら、日本にこんな埋もれた史跡があるなんてわからないわけですから。本当にGoogle様様!これ、もはや「米国のGoogleに教えられる日本史」という新ジャンルですよ。笑

米国のGoogle様に私たちの生活情報を根こそぎ抜かれているのも、悪いことばかりじゃないなと思えてきます。だって、自国の史跡の場所すらGoogle様に教えてもらうのですから!皮肉を通り越して、ちょっと笑えてきます。


それにしても、これだけ目立たない史跡、ある意味すごいと思いません?むしろ「何もないこと」を味わう贅沢。想像力をフル稼働させて、「ここにかつて高札が掲げられていたんだな」と思いを馳せる。これはもう、“何もない”を感じるという新しい形の史跡体験なのかもしれません。

現代の便利なツールに頼って、過去の片鱗を探しに行く。それがGoogleマップ時代の「歴史巡り」なんだな……なんて、ちょっと思ってみたり。まあ、史跡があまりにも目立たない分、現地での発見の喜びはひとしおですけどね。

Googleマップの史跡ピンが現代の“案内板”ってことで。笑

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捏造から歴史を覗くー椿井家が語る日本の真実と虚構ー


歴史のロマンと闇が交錯する!京都府山城郷土資料館の歩き方」の続編♪

近年、尾張椿井家文書から驚きの事実が判明しました。なんと、南山城の国人たちが築いたネットワークは、山城国一揆後も解体されることなく、戦国時代を通じて維持されていたというのです。これに基づき、展示は山城国一揆後の世界へと進みます。

さて、ここで登場するのが「椿井家」。そう、あの江戸時代に数百点に及ぶ偽文書を作り上げた天才詐欺師、椿井政隆の一家です。彼は寺社の縁起や由緒書、系図、絵図、さらには手紙までを捏造。中世の年号を使ったり、信憑性を高めるために確かな史料から内容を借用したりして、誰もが「これ、ホンモノやん!」と思い込むような偽文書を生み出しました。

しかも、政隆の手口は実に巧妙。証拠が少ない中世の系図に絞り込み、知識人の目が届きにくい農村や山間部をターゲットにしたのです。その結果、偽文書である「椿井文書」は、学校教材として採用されたり、裁判の証拠資料になったり、神社の石碑に刻まれたりと、もはや文化財扱い。さらには、嘘から生まれた地元伝説が盛大なお祭りのテーマになり、観光案内板にまで昇格するという驚きの展開。「嘘も突き通せば文化財」という言葉があるとしたら、それは椿井政隆のためにあるようなものです。笑

椿井政隆が現代を見ていたら、きっと腹を抱えて笑っていることでしょう。「自分の捏造が、ここまで社会に浸透するとは!」と。その姿を想像しながら、歴史の奥深さと人間の想像力に改めて感嘆せずにはいられません。

京都府山城郷土資料館


ここでふと、「そんな椿井文書を展示に使って大丈夫?」と疑問に思うかもしれません。ですが、安心してください!展示に使われているのは、あの偽文書界の伝説、椿井政隆の手によるものではありません。その父、椿井権之丞政矩が手書きで残した「正真正銘の本物」です。

具体的には、椿井家の分家ができる際に、実家に伝わる貴重な史料を、父である権之丞が丁寧に書写して残したものが「尾張椿井家文書」。歴史家たちも「これは間違いなく信頼できる」とお墨付きを与えています。つまり、ここに展示されているのは、捏造師として名高い椿井政隆の偽文書ではなく、彼の父が守り伝えた家の正統な記録なのです。ここはぜひ、胸を張って展示を楽しみましょう。むしろ、「椿井政隆の伝説の裏に、こんな堅実な家族の努力があったのか」と、そのギャップにほっこりするかもしれません。笑



ここではっきり申し上げますが、某国の皆さんが「忍者もサムライもソメイヨシノも、剣道、柔道、合気道、茶道、華道、折り紙、清酒、納豆、さらにはビッグバンまでも!全部うちの国が起源!」と堂々と主張される姿には、正直、驚きを通り越して軽い感動すら覚えます。しかし、残念ながら捏造の起源に関しては、日本の圧勝です。笑

なぜなら、我が国には、捏造界のレジェンド、椿井政隆というお方がいらっしゃるからです。彼の功績(?)たるや、江戸時代に数百点もの偽文書を作り、寺社や歴史研究の世界を見事にかき回しました。ここまでのスケールで偽文書を作り、しかもそれが文化財として扱われるレベルにまで昇華する例は、ちょっと他国ではお目にかかれません。

さらに言うなら、日本の古事記や日本書紀だって怪しさ満点。それに、戦いに勝った者が、負けた者を徹底的に悪者扱いし、自分たちの正当性を高らかに謳うために歴史を塗り替える、そのようなこともいろいろやらかしてきました――これが伝統的な勝者のセオリーです。まっ、言ってしまえば、こうした勝者による歴史のカスタマイズが、日本でも、いや、むしろ世界中で繰り返されてきたのではありますが。

まーいいです、そもそも、某国ができたのはごく近年の話ですよね。「某半島が起源だ!」って主張なら、まだ筋が通るかもしれません。でも、そこを通り越して「我が国発祥!」と言われると、ちょっと待てよと首をかしげざるを得ないんです。初手からして「それってどういうこと?」と、もはやイミフの状態に突入してしまうわけです。そして北側には白〇〇神話なるものがありますが、これがまた日本神話を参考に作られたものだとか。いやはや、日本神話がそもそも怪しいのですから、参考にした時点で二重に怪しいわけで…。結論を言えば、捏造の起源も、文化的なカオスの起源も、すべて日本が先陣を切ってきたのです。

ですから、某国の皆さん、起源説を大いに語るのは「五千兆万年」ほどお早いのではないかと、ここに謹んで申し上げます。悪しからず。笑


京都府山城郷土資料館
↑上狛環濠集落と狛城(狛どんの御屋敷♪)↑

国人たちが各地に築いた城館が、遺跡からの出土品や写真とともに紹介されており、それらに目を向けると、戦国時代の人々の暮らしや営みがまざまざと浮かび上がってきました。その生々しい情景は、単なる展示を超え、時空を超えた「共感」を呼び起こすものがあり、非常に興味深い内容でした。

中でも、上狛環濠集落や狛氏の居館の紹介は、地域の特異性を強く感じさせ、じっくりと拝見しました。また、細川氏綱の書状、信行寺大悲尊像縁起絵巻、さらに松尾神社の西側に椿井城が存在した可能性を示唆する椿井村地籍図といった資料群は、歴史の中で埋もれがちな地方の物語を掘り起こし、非常に示唆に富むものでした。




戦国の世が終わり、織田信長が上洛した後の時代に移ると、展示は一層の迫力を増します。「天下布武」の朱印が押された信長の朱印状をはじめ、羽柴秀吉や佐久間信盛、柴田勝家といった歴史の主役たちが書き残した書状がずらりと並びます。それらに込められた筆者の思惑や緊迫感が、直接伝わってくるようで、戦国時代の動乱が鮮やかに蘇りました。

京都府山城郷土資料館

常設展では写真撮影は禁止でしたが、このエリアの先史時代から江戸時代に至る歴史が、遺物を通じて簡潔かつ分かりやすく学べるよう工夫されていました。小規模ながらもその充実ぶりには感心させられるものがありました。また、京都府山城郷土資料館では定期的にさまざまな催し物が開催されているようで、その活動の幅広さが静かに資料館全体の活気を支えているように感じられました。

この資料館は、単なる展示物の集積ではなく、地域の歴史を現代に繋ぎ、人々にその意義を問いかける場として、非常に価値のある存在だと感じました。その歴史的深みと工夫に触れ、改めてそれぞれの地域の過去を学ぶ意義を強く実感しました。

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