斬首跡
嘗て日本でも戦いの際に火をつける、等はけっこう行われていて、当然ながらその中には寺社も燃えてしまったりした。偶然燃えてしまったのではなく敢えてピンポイントでその寺社を狙った上で焼き払った例もありましたよねぇ。
昨今は食品工場や畑などで不思議と火災が起こって全焼したりしている。つい先日も仏パリの世界最大の生鮮品卸売市場で大火災が起った。食料関係がピンポイントで狙われているような気がするのは気のせいだろうか?? それに加え、
英国ウェールズの小学校ではキリギリス、カイコ、ミールワーム等の昆虫食が給食に導入され、仏国には世界最大の垂直型昆虫養殖農場ができ、中国ではゴキブリ繁殖農場がある。日本でもコオロギ食がその辺のスーパーでも売られ始めた。いずれ一般民衆は昆虫を食するようにされるのだろうかね?
話がそれたが、寺院を焼き払おうが、食品工場や穀物野菜畑が焼き払われようが、原因不明もしくは、焼き払った方に圧倒的な力があればグダグダ煩い奴らもぶち殺せばそれで済んだことだった。
要するに、力があれば、何やらかそうが、たいして大事な問題とならないわけだ。
東大寺大仏殿やらを燃やし尽くした松永久秀なども、日本で最初に爆死した漢、として有名だが、東大寺がーーー!!とかよりも、彼のその死に方の方に圧倒され有名なように思う。同じく、
南都焼討で有名な平重衡はどうだろうか。嘗て栄華を誇った平家の名だたる武将たちをはじめとする首を長矛の先に刺し貫き、勝った源氏軍が京の都大路を見せさらして歩いた時、一の谷の合戦で敢えて一人生きたまま捕虜となった重衡に、「仏敵!」 だとか罵詈雑言を浴びせ石やら砂やら唾やら棒切れやらなどを重衡に投げつけてきた僧侶たち。
とても御仏に仕え人々に教えを説く僧侶とは思えない言動である。そして「重衡の身を引き渡せ」 とネチネチネチネチ。集団でたった一人を取り囲みリンチをし嬲り殺したくてたまらなかったのだろう。
京の町を離れ鎌倉に移送された重衡。重衡の人柄からだろう鎌倉の地で大切にされ女性まであてがわれて静かに暮らしていた。
が、ネチネチしつこい人格破綻者としか思えない南都僧侶たちは、鎌倉にまで来て重衡を探し回った。頼朝が警護を厳しくすると、南都僧兵らは今度は、重衡の身の引き渡しを頼朝にしつこく強訴し続けた。一年ほど鎌倉で静かに暮らしていた重衡はついに南都の僧兵らに引き渡される。
平重衡は、捕虜となってから法然上人に会い、受戒し、仏教に帰依した。極々一部、法然上人のように人の心を救う聖僧もいたわけですが、重衡の時代で言うと、入道信西などの権力欲と支配欲にまみれた似非坊主や叡山などその大半は南都の僧兵のような武装して戦うファイターだった。藤原信西あらため入道信西などは、250年ぶりに斬首刑を強硬に復活させ、新院方について負けた源平それぞれの敗残の身内の者を、勝った内裏方の源平の者に斬首させたりしたりもした。
想いを馳せると、我を押し通すために神を利用し、榊の先に御神体である鏡をつけた御神木を僧兵らが担いで強訴したりなどなど、とても悟りを得ようと日々精進している人とも、解脱を目指す人とも思えない。国家が安らかなることを、民衆やらの心を救う事に身を捧げる人とも到底思えない、単なる暴力団やチンピラやゴロツキの集まりだった。
神木を使っての強訴の度にその通過点の住民たちに課せられた力仕事も含めた様々な物資の提供なども考えると単なる迷惑なだけの存在にすら思える。
昨今の社会情勢を見渡しても極々一部の良心的な立ち上がる医師たちなどがいる一方で、9割を超える医療薬学従事者が自分と自分の大切な人以外の他人を使って実験をしてみたいという異常者、人の健康を害しようが〇のうが金が儲かればそれでいいという金の亡者、さもなくば非常に勉強不足、という事が明るみになりましたが、人が集まると大抵は碌な事にならないような気がする。いつの世も人は変わらない。
最期に仏を拝みたいという重衡の願いに、近隣から探し出された阿弥陀仏を拝み重衡は念仏を唱えた。奈良口のここ、”平重衡首洗池・不成柿” と書かれた看板のたつ木津川河畔のこの地で、1185年6月23日、29歳の重衡は斬首された。29歳ですよぉ。。。重衡の首はここから徒歩1時間ほどの地にある奈良の般若寺の大鳥居の前に釘付けにされたという。重衡の胴体は河原に打ち捨てられたという。
里人たちは重衡を哀れみ柿の木を植えたという。が、柿の実は一切ならず、いつしか不成柿と呼ばれるようになった。その柿の木はもう既に枯れてしまい新しく植えられた柿の木が、重衡斬首跡地を寂しく彩っている。
重衡の首を洗ったと言われている首洗いの池の地でもあるが、今では池は見当たらない。
”平重衡首洗池・不成柿” は木津駅から徒歩10分程度の地にある。この先は道路もなく行き止まりだ。この一画は車一台ようやっと通れるかという狭い道で古い人家が建ち並んでいる。向こう側には木津川が流れており土手になっている。見上げると右側頭上には線路がある。ちょっと驚いたのが ”平重衡首洗池・不成柿” の隣に、この写真の右手に今も人が住んでいる古い小さな家があり、玄関がここに向かって開くように建てられていた。特に塀などで区切ってもいず階段などもなくまるっきり地続きで、外に出る度にこの風景を見て過ごしているのかぁ、と。
そしてここから徒歩数分のところには、重衡の菩提を弔うために建立されたと伝えられる哀堂とも呼ばれる安福寺がある。この地の人々は重衡の事を哀れと思い菩提を弔う心の美しい人たちだ。かつての南都の僧兵とはえらいちがいますな。その安福寺には重衡の引導仏と伝えられる阿弥陀如来像が安置され、平重衡像を蔵し、重衡の肖像画もある本堂は普段は非公開。毎年7月23日には重衡忌法要が行われ一般人も参列し肖像画も拝見することができる、との事なので私も参列してみたいと思っている。
園城寺、叡山が立ち上がった源氏らと手を組み反平家勢力が形成される中、傍観中だった南都を懐柔しようと清盛の依頼により右近ノ別当忠成が興福寺へ派遣された。が、奈良に入ると僧徒が囲い込み忠成と従者全員を襲い追い払った。二度目の使者が赴いたが同様の結果となり、三度目、南都の僧徒らが武器を手に襲いかかってきた。逃げ遅れ捕まった70人程の従者は首を斬られ、首は猿沢の池のほとりに架けさらした。そして、そのズラッと架け並んだ首の下で清盛の似顔絵が描かれた毬を長い槌で転がして遊んだ。
なかなかすごい僧侶ですな。俗世間にいる私ですら真似できませんわ。
そこで重衡は清盛に命じられ南都討伐に出向いた。叡山と源氏の鎮圧のため近江に人員をとられ、約4千騎での出陣だったが、南都僧兵はその倍の人数で立ち向かった。朝から始まった戦いは夕方にまで及び、攻め落とした時はもう暗くなっていた。逃げ惑う群衆の中に紛れた悪逆僧を探し出すのに灯りをとるために火がかけられ、気づくといつの間にか東大寺境内にまで火が回っていたという。
中に逃げ込んだ民衆は怖くて体がすくんで動けなかったとしても、僧侶たるもの一緒に逃げ込んで震えて民衆にまじって隠れていないで、堂々と出て民衆だけは助けるべきだったのだが、怯えながら皆で焼け死んでいったという。
それで恨みを持たれても、って感じがするのだが。。。。。
もとはと言えば、喧嘩を売って来たのも南都僧兵側。味方になりたくなくて断るにしてももうちょっと礼儀というものが必要なようなきがするのだが。しかも、僧兵の人数は重衡勢側の倍もいたのに負け、民衆を犠牲にして民衆の中に紛れ込んで逃げ民衆を助ける事もせず道連れにしたのも南都僧兵側だ。自分らでまねいたんじゃねぇーの?って言っても過言ではないと思えるのだが。
なのにいつまでも重衡に恨みつらみを抱いて、ネチネチ重衡寄こせ~と言い続けてついにGetし、取り囲んで斬首し、首はさらし胴体は河原に打ち捨てておくとかって、果たして仏僧のすることだろうか????????
重衡は、義経や頼朝すら心を寄せ大切に扱われた。一切の言い訳をせず、念仏を唱えながら斬首された重衡の方が、当時の南都の僧兵らよりも無量大数倍も僧侶だと思うのだが。鎌倉の地であてがわれた女性は、重衡が南都側に引き渡された後もずっと重衡に心を寄せていた、というところでも重衡の人柄がわかる。
さて、階段をのぼって安福寺入ってすぐ左手には、重衡の供養塔である鎌倉時代作の十三重石塔がある。
ちなみに私は重衡の事が好きだ。会ったことはないのであくまでもイメージ上の重衡を好き、ということではあるが。と、言う事で、さて、一体何でこうなっちまったのか、何がいけなかったのか考えてみた。もちろん先に書いたように当時の南都の僧兵らが最大最悪の原因なのではあるが。
重衡は武勇にも知略にも優れていた。そしてこれは余談だが、外見も優れていたという。で、ボロボロになった平家が一の谷の合戦で絶滅寸前になる時まで、賢い重衡が出陣した戦は負けたことがなかった。一の谷の合戦は出陣とかそういうレベルではなく、平家一門が都落ちし、ようやっと見つけた居住場所を一気に囲まれた感じですわな。義経も利口でしたよねぇ。
正直、清盛の死後、平家棟梁となった宗盛が、あまりにも知力的にも人間的にも武勇的にも全ての点で劣り過ぎる人だったのが平家滅亡の原因ですよねぇ。知盛か重衡が跡を継いでいれば平家が栄華を一手に握り誇り続ける事はできなかったとしても、こんな結末とはならなかっただろう。
壇ノ浦の戦いで大敗を決した平家一門が次々と入水自殺するなか、宗盛は船上でオロオロし、ついには味方に蹴り飛ばされ海に投げ込まれる。泳ぎだけは得意で子の清宗と死に物狂いで海に浮かんでいるところを源氏に捕獲された。
自分がバカ過ぎたから身内やそれに従う人たちが大勢亡くなったというのにもかかわらず、宗盛は自分だけはなんとか助かろうと、その後も、源氏の前で命乞いをし続けた。が、頼朝には全く相手にされず直接会ってもらうことすらできなかった。重衡と頼朝はサシで語り合っている。
重衡と宗盛、どちらが棟梁にふさわしかっただろうか。
年齢が上だからという理由で跡取りにするのは一族もろとも滅亡することになる、という良い例だろう。
まっ、全て真実は知らんがな。
さて、宗盛がバカだったのはそれとして(宗盛殿、すまん!)、もう一つ、もともとの事の発端は、白河法皇のようにも思えるし、淫乱奔放だったと言われる待賢門院璋子を鳥羽天皇(白河天皇の子)が娶ったのが事の発端だったようにも思える。
待賢門院璋子は、入内した時に既に白河上皇の子を懐妊していたともいわれている。その子が5歳になると白河法皇は我が子である鳥羽天皇を退位させ、己の孫である5歳のその子を皇位につけ崇徳天皇とした。鳥羽天皇からするとまったくもって全てが面白くないですわな。
絶世の美女だったと伝わる待賢門院璋子は残念ながら淫乱だった(ーー; 他に子どもを6人産み、さらに公卿の誰彼とも密通していたとも言われている。
白河法王が崩御すると、追いやられていた鳥羽上皇の報復が始まる。
鳥羽上皇と美福門院得子との子である3歳の體仁親王を謀策により皇位に就け近衛天皇とし、23歳の崇徳天皇を皇位から追い落とした。17歳で近衛天皇が重篤な状態になると、誰を皇位に就けるかで内裏派と新院派でわかれ源氏や平氏に自分の側につくよう勧誘が激しくなってくる。この時は源氏だとか平家だとかで別れてはいず内裏派と新院派で骨肉の争いとなったわけだが、
あぁなんか書くのが面倒くさくなってきたのでやめるが、まぁ天皇家もゴタゴタ人間臭くドロドロしてておまけに大勢の周囲を巻き込んで大概だわな。まぁ天皇家のゴタゴタがなかったとしても、いずれ源平争うようになっていた気もしないでもないが。
あぁ、あとは、平治の乱の後始末で、清盛が頼朝を殺してしまわなかったのが一番いけないような気がしてきた。義母の言うことなど無視して清盛が頼朝を殺していれば義経もあんな悲惨な最後にはならなかったですしねぇ。まっ、義経はチンギスハンになったという説もありますが。ムフフフフ 一族を率いるだけの器でない宗盛には跡を継がせない様にしておくべきだったのも清盛ではないかな。
重衡は、源平和睦の道を探った実は平和主義者だと思うんですよねぇ。かといって平家から寝返るでもなく、また、頼朝に命乞いをするでもなく泰然としていた。重衡さん、マジ格好良いっす、パネェっす!パネェっす!パネェっす!
平重衡氏の魂が安らかでありますように。
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