ずっ~と以前から訪れたい!と思っていた 華岡青洲顕彰施設 青洲の里。めっちゃ可愛い絵で描かれているわ~。
華岡家の御先祖様は、楠木正成の一族。その和田五郎氏は、後醍醐天皇が崩御されたことにより宮田村華岡に移り住み、華岡姓を名乗った。これが華岡家の始まりのようだ。
その子孫である伝之丞は戦国時代を生きた人だが、紀州守護大名畠山高政に仕えた。高政氏の死後、紀州に移り住み、農業を始めた。
伝左衛門(伝之丞の子)は父の農業を継いだが、伝右衛門(伝左衛門の子)は薬草の開拓を行い、医療用薬剤を近隣に施した。医療との関わりはこの代からのようだ。2代にわたり耕してきた農業で肥えた土はあったし、祖父、父から受け継いだ農業技術や知識もあった。薬草栽培をする下地は整っていたのだろう。しかし、それにしても、薬草の開拓って凄いっすよね~! 人間生まれてきたからには、多くの人々を救ったり世の中を良くするために活動するべきだよなぁと感じた。
久兵衛(伝右衛門の子)は、農業と医業を兼務。雲仙(久兵衛の子)は医業専門で生計を立てた。
直道(雲仙の子)は、岩永蕃玄に南蛮流外科を熱心に学び、内科・外科を網羅する腕前だったという。この直道が華岡青洲の父親である。
青洲の兄弟は男4人、女4人だったが、姉妹は機織りや薬草栽培などでお金を捻出し、青洲を京都留学に送り出したという。当時、医学習得には5年~10年かかるのが通常だったのだが、青洲は猛勉強し京都で3年間、古医学(漢方医学で実践医学を重視)を吉益南涯に学び、大和見立(長崎でカスパル流外科を学んだ)に蘭学と伊良子流外科を学んだ。
どちらかに偏ることなく、漢蘭折衷の医学を学んだ。
銅像はこんな感じ。先ほどの絵とは随分違いますなぁ。こちらはどっしりと貫禄がある。
ここ↓は、江戸時代中期1805年頃に建坪20坪程の大きさで開設された医塾春林軒のあった場所。全国から教えを求めて多くの門下生が殺到し門下生1033名が医学を学んだ。青洲の末弟で湯薬治療で名を挙げた鹿城は、青洲流外科を推進し大阪中之島に合水堂開設。その門下生と合計すると青洲門下生は2250名にのぼった。
医学塾であると共に、診療所でもあり全国から難病奇病の人たちが救いを求めて集まった。その難病奇病の人たちの姿の絵を見ると、当時は手の施しようがなく化物と称され見世物小屋で己をさらして生きていたような人も青洲の評判を聞きつけ集まって来たのだなぁとわかる。
自宅兼診療所兼医学校でもあったが、あまりの反響で手狭になり、建坪220坪の住居兼医学校兼病院として増築。門人たちの宿泊施設や患者家族の滞在旅館、婦人治療室、手術室、薬剤調合室、薬剤室、患者控室、病室3室(12畳、10畳、8畳) などが設置されていた。
ここ↓が、医学塾ですね。1670年に庶民教育の為につくられた
閑谷学校の講堂にも、これと同じ座布団って呼び方でいいんですかね? が置かれていたな~。江戸時代の定番の敷物なのだろうか?? 音声が流れててまるで当時、講義を受けている錯覚におかれる。
内塾の隣の部屋は膏薬製煉所と薬貯蔵所。
華岡青洲は、世界初の全身麻酔手術を行った事で世界的に有名ですが、こういうのを見ても↓今と違って薬を作るのも道具からして大変ですね。しかも、1754年に山脇東洋が解剖を行い、1774年に杉田玄白と前野良沢の苦闘の末、解体新書が世に出た時代。西洋医学がようやっと我が国に入って来たばかりの時代。漢学と蘭学の医学を学んだ青洲は、仕事の傍ら野山を駆け巡り薬草を集め、薬を調合し、20年以上も動物実験を続けた。それに成功すると、協力を申し出た母親於継と妻の加恵に人体実験を行い、人体への至適投与量を決定することが出来、麻沸散が完成した。この人体実験において妻加恵は失明し盲目となった。
麻沸散は、中国の後漢時代(25年~220年)の名医華陀が開発し無痛のまま腹部切開手術を行った事が中国の魏書に記されている。時の権力者に屈服せず、それでも曹操の典医となった華陀だが田舎に引っ込んだことにより曹操の逆鱗に触れ殺されてしまった。華陀の開発した麻酔薬麻沸散の存在を知り麻酔開発に意欲をもやしたものの、資料等残っていない事から、青洲は麻沸散の研究開発に数十年を費やした。
思い通りにならないからって華陀のような天才をぶち殺すとは。。。もっともらしく後になって、手術は儒教の教えに反するからテヘペロ とかほざきごまかしているようだが必死乙としか思えん。アレクサンドリア図書館も燃え尽くされましたし、アルキメデスも殺されましたし、ラヴォアジエも彼には到底及ばない能力たちの一般ピープルが行った革命裁判所で処刑されたし、イエスキリストも殺された。人間って一体・・・・・争いや戦争がなければ今頃、宇宙に人類住めるようになっていたのではないだろうか?
時の権力者や宗教やらその者がいる事で不利益を被る者にとっての邪魔者は、命を取られることも多いですが少なくとも社会的にはぶち殺されるんですねぇ。故中川昭一氏なども仕組まれて酩酊会見をさせられその後自宅で変死体として見つかったようにしか思えないですし。。。。
ナチスドイツのあの人体実験がその後の科学技術や医学などの飛躍的進歩に貢献しているとも言われていますが、ヒトラーの事を嫌悪し罵詈雑言を尽くす人もいる。が、実はその人たちもナチスドイツが行った人体実験の恩恵を受け生きている。もちろん本人の心からの熱烈なる同意なしで人体実験の対象にされた方にとってはとんでもない事で非難されて然るべきことだが、でもそれらが医学・科学技術の進歩に大いに貢献し未だにその恩恵を我々は受けているのはきっと事実だろう。
これ↓には驚いた。青洲は当時、排泄物の独自の浄化槽を設置していた。このように衛生環境にも非常な配慮がなされている。防火水槽も設置されていた。また、青洲は世界を見渡しても未だ消毒概念がなかった時代に焼酎で消毒を行っていた。青洲が世界初全身麻酔手術を行い成功したのは1804年。この頃既に青洲は焼酎で消毒を行っていたのだから感心する。
ゼンメルワイスが手洗いを勧めたのが1852年、パスツールの微生物や雑菌の発見が1864年、しかしこれらはろくに相手にされず、1883年になって米国でようやっと煮沸消毒などが始まったことをみると、青洲の消毒概念は非常に突出した進んだものだったということが分かる。
日本では、戊辰戦争時の1870年に英国外科医ウイリスが、焼酎で傷を洗う事を勧めた記録がある。でも実は紀元前5世紀に生きたヒポクラテスの時代には、葡萄酒による傷の洗浄や烙鉄による焼灼が行われていた。人間は進化と退化を繰り返して少しずつ成長していくものなのだろうか?? どんなに素晴らしい考えや発見でもその時代の人々の意識がそれに追いついていなければ、提唱した人は殺されたり迫害されたり、もしくはその人の死と共に自然に消えて埋もれてしまったりしませんかい? 時代に早すぎた! みたいな感じで。いくら立派な考えだろうと大衆がバカだと理解されないで逆に迫害を受けたりするのが世の常のような気がしますねぇ。。
ガリレオが宗教裁判で有罪になったことからも人間ってとんでもないアホだね(ーー;
3室の病室があって、戸を開けて中を見学できるようになっていた。青洲が患者に話しかけている音声も流れる。
面白いなぁというか失笑してしまったのが、”療治一札之事” という書類を見る事が出来るのだが、これは、手術の際にどのようなことがあっても何ら異議申し立てしないことを患者等が青州に約束した書類である。この当時からあったんですね、こういう約束の書類が。後でゴタゴタ言ってくる人とかモンスタークレーマーとかいますからねぇ。。
向かって右側の棚に入っている本はどうやら見た所当時の物のように見えた。
これが当時の乳がん患者さんの絵なのですが、どうすることも出来ず放置してこんなひどい状態になってしまったのだろう。当時訪れた患者さんたちの記録である彩色奇患の図を見ると、今のようにちょっとした事で即病院に行ってなんとかしてもらう時代とは違ったんですね、仕方がないから放置し続けとんでもない状態にまでなった人々が救いを求めてこの春林軒にやってきていたのが分かる。
一例をあげると、こんなん↓とかですよ。。。こんなんにまでなってしまった方々が沢山、青洲の元にやってきた。うわぁ。。。って感じだ。見世物小屋で 「気持ち悪っ!! きもーーーー!!」 とかキャーキャー悲鳴を上げ騒がれていたのだろうかなぁ。。。しかも胴元にピンハネされ、でもどうせ気持ち悪がられるのならお金が手に入った方がいいですしね。ウーム ご本人は具合も悪いだろうし本当にお困りなのでしょうがね。。。
出典:彩色奇患之図私が、華岡青洲を知ったのは、子どもの頃読んだ有吉佐和子の 華岡青洲の妻 という小説である。加恵の憧れだった姑は結婚したら息子にバレない様にネチネチと底意地悪く嫁をいびり通す嫌な女で、麻酔薬の人体実験も青洲の愛を得るための嫁姑の戦いのような寒気のする収奪戦のようだった。嫁姑って怖ぇーーー! 同居って怖ぇーーー! と戦慄が走ったものだ。
対抗意識を燃やし徹底的に嫁をいびり通す鬼畜な姑、というイメージがその小説で強烈に脳に刻み込まれていたので、この場面↓を見た時は、んん??? っと思った。
そんな意地の悪い嫌な婆さんには見えないじゃないか。麻酔薬で3日間昏睡状態を続けた加恵を心配して見守っている姑にしか見えない。それとも青洲がいるからバレない様に心配しているフリをしているのだろうか??(笑) しかし、この姿を見て、私の中で有吉佐和子の小説設定がガラガラと崩れた。あれは有吉佐和子氏のみた世界観なんだな、と今更気づいた。それにあの小説は、嫁加恵から見た世界を描いたものだった。もしかしたら姑はそんな意地悪な人ではなかったような気もするし、よその家から嫁として一人違う家に来た嫁から見た世界でそのフィルターを通しての世界なので実際の姑の姿ではなかったのかもしれない。単純に有吉佐和子氏の単なる想像、彼女が作った世界だったのかもしれないな、と、今更気づいた。有吉佐和子の心象風景みたいな。
これ↓で病人を運んだんですね。青洲は顔面手術などの際は、傷痕が残らない様に細心の注意を払って縫合などを行っていて、それを門下生にも徹底させている。
他も、物置、使用人部屋、米倉、米つき場、薪置場、蔵などがあって見ごたえがあった。使用人部屋は2階にあるのですが、窓を開け景色も楽しめた。
1802年、紀州藩主徳川治宝は青洲を士分に任じ、帯刀を許した。その後、1804年、世界初の全身麻酔による乳癌手術を行い手術は成功。これに対し、杉田玄白と前野良沢は、称賛の手紙を送っている。青洲は様々な手術器具を考案し改良を重ね、それらの手術道具も無料の展示室でみることが出来る。
1808年、農民が干ばつで苦しんでいるのを知った青洲は、私財を投じて灌漑面積約1万7千坪の溜池ー垣内池ーを作って困窮する農民たちを救済した。なんかすっげー人だなって思う。やっぱ人間はこうやって世の為人の為に生きてこそだなぁって。
吉益北洲に学んだ華岡修平(青洲の子孫)は、青洲没後、跡を継ぎ、和歌山城下でも診療を行い名声が高かった。青洲の没後も春林軒は医塾として明治維新まで継続した。その後2代が実業家として活躍。そして青州から4代目にあたる慶應義塾大学を卒業した雄太郎(1898-1969)氏は札幌区立病院(現札幌市立病院)に勤務し、後に小児科医として札幌市で開業。その次の代も札幌市で医者として活躍し、その長女と結婚した循環器専門医の五十嵐慶一氏は、札幌市に華岡青洲記念心臓血管クリニックを開業している。
春林軒に入り青洲の門下生になるには、奥伝誓約文之事 という血判まで押した誓約書が必要だ。誓約書の内容は、青州から学んだ秘術は親であっても口外しないという血で約束した書類である。
が、春林軒で学んだ実践医療の経験を元に我が国で初めて脱疸患者の大腿切断術に成功した本間玄調は、奥伝誓約文之事の血判の約束を勝手に破り、青州の遺教を公に発表し瘍科秘録、続瘍科秘録、内科秘録、外科堤要らの本で暴露した。裏切り者である。
代々医師の家に生まれた本間玄調は、華岡青洲、シーボルトに学び、徳川斉昭に認められ水戸藩医となり、弘道館医学校で教授となった優秀な門下生だ。でもいくら優秀でもねぇ、裏切り者ですからねぇ・・・・人間としてはどーなんでしょーねー。
あと、私が花岡青洲関連で、なんだかなぁ??って思うのが、佐藤泰然だ。華岡青洲が春林軒を開いてから、1824年にはシーボルトが長崎に鳴滝塾を開き臨床講義や手術の直接指導を行い全国から入門希望者が集った。1838年には大阪の蘭医中天游に学んだ緒方洪庵が大阪に適々塾を開き、千人にも及ぶ門下生が集った。シーボルトとか緒方洪庵は有名ですよねぇ。。。
あとは、長崎の吉雄塾で学び、京都に1839年に京都に順正書院を開いた新宮涼庭の塾にも数千人もの希望者が集った。あまりにも盛況で塾から得た収益を幕府に還元したりもしている。そんな中、
はぁ??? 一人で勝手になぁに敵対視してんの!? と頭に疑問符が一億個以上ついてしまう不思議ちゃんが、長崎のオランダ商館長ニーマンに3年間学んだ佐藤泰然だ。初めに言っておく。私は華岡青洲の絶対なる味方だ!
佐藤泰然は、1838年に江戸で和田塾を開き、数多くの蘭書収集でも知られ和田文庫と称するほど。1843年には和田塾を女婿の林洞海に任せると、佐藤泰然は佐倉に移住し蘭医学塾順天堂を開いた。
佐藤泰然が江戸に開いた和田塾が今の順天堂大学であり、うまいことやったなぁと佐藤泰然の生き方から黒々しく苦笑いで眺めてしまう。順天堂大学にまで発展させた佐藤泰然は腹黒、時の権力者にどうやって媚うったんだろうねぇ。。。とか勘繰ってしまう。
佐藤泰然は、手術には肯定的で西洋医学を教えた。が! 華岡青洲の麻沸散には非常に否定的で異論を唱え続けていたという。彼は、無麻酔で手術を成功させていった。手術がうまいのは結構だが、自分が患者だったら無麻酔よりも麻酔をしてもらいたいと切に願うのだが。。。何一人で敵対視してるんだろうねぇ。。。って私は佐藤泰然が好きではない、って言うか嫌な奴~性格歪んでますなぁ~って失笑だ。
ちなみに紀元前1500年前の古代エジプトの医学書には、痛み止めに阿片が使われた事が記されている。紀元前600年頃にはインドのススルタは生薬、阿片を用いて開頭術を行い、紀元前450年頃のヒポクラテス時代には痛みに阿片、大麻、ヒヨス、マンダラゲ、アルコールなどを用いていた。また、208年に拷問死させられた中国の華侘がマンダラゲとアルコールを混ぜ無痛で開腹手術を行った。
昔の方が優れてますなぁ。その後の手術といえば、腕力自慢の屈強な男たちに抑えつけられ行われていた。無麻酔で足切断手術だとか開腹手術だとかなんかもう死んだ方がマシなような気がする。足切断とかだったら未だ切ってしまえば終わり♪ってかんじですが、内臓だとかは手術したってほんの少し命が長引く可能性はありますが再発だとか何だとかで結局死に至るのなら、無麻酔で狂うような痛みに耐えながら屈強な者どもに押さえつけられ切り刻まれ縫合されるのなら静かに弱って死んだ方がいいと思ってしまう。。
今は、麻酔で痛みを遮断することが出来、良い時代になったなと感謝しかない。
華岡青洲記念館で1400円で売っていた紫雲膏を1本買った。青洲が作った軟膏なんですね~。皮膚トラブル全般に効果があるんだそう。漢方薬だからゆっくり効くんだそうですよ~。薬は使わなくていいのが一番なのですが、この紫雲膏は使うのがちょっと楽しみ♪ムフフフ
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テーマ : 主婦の日常日記
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