焼け跡と礎石が語る、日本の戦闘民族の強さとしぶとさ
聖武天皇の時代は、飢饉や反乱、疫病が次々と襲いかかり、まるで「次はどんな厄災が来るんだ?」と神様に試されているような日々でした。そんな中、聖武天皇は「こんな世の中、仏にすがるしかない!」と決意し、仏の力で国を守るための「鎮護国家」を祈念することにしました。
741年、天皇は全国に向けて国分寺建立の詔を発令。「いいか、お前たち、七重塔を持つ立派な僧寺と尼寺を作れ。そしてその塔の中には、金光明最勝王経と妙法蓮華経を納め、毎月きっちりと経を転読するんだぞ。寺を建てる場所も、ここぞという長く保てる最高の場所を選べ!」という、なんとも詳細かつ厳しい指示を出しました。都には東大寺と法華寺も建てさせましたが、これはもう壮大なプロジェクトでした。
さて、聖武天皇については以前このブログで散々こき下ろした記憶があります。(--; 彼の時代、747年に着工した東大寺の大仏は、5年後の752年に完成しましたが、その裏では庶民たちが「ああ、大仏様、私たちの背中に乗っかるこの重圧を感じてください」と叫びながら、重い負担を強いられていたのです。大仏が完成した今、その結果として奈良県が観光資源として潤っているわけですが、これもまた歴史の皮肉というものでしょう。
そして、七重塔を持つ国分僧寺と国分尼寺の建設命令。これを聞いた貧しい地方の人々は、きっと「天皇様、それは命を削ってでもやれということですか?」とつぶやきながら、全力で取り組んだに違いありません。
歴史の中には、皮肉なことも多いですが、こうして時代を超えて遺産として残っているものを見ると、複雑な気持ちになりますね。それにしても、天皇もなかなか厳しいことをおっしゃいます。仏にすがるどころか、庶民の方が先に仏様になりそうでした。
ここは、奈良時代に聖武天皇の命令で建立された国分寺の跡地。そんな歴史の重みがある場所から眺める天橋立の絶景は、まるで天と地が一本の線でつながっているかのよう。まさに、ここを選んだ人々のセンスには脱帽ですね。
日本人は実は戦闘民族、なんて言われることもありますが、その本領が発揮されたのが戦国時代の1542年。この時期、戦乱の嵐が吹き荒れ、国分寺も例外なく炎上。伽藍は焼け落ち、現在残る礎石には、まさにその猛火が刻んだ焼け跡が残っています。「歴史の証人」という言葉が、これほど実感できるものはなかなかありません。
さて、時代が下ると、江戸時代の1683年に今度は自然の力が国分寺を襲います。洪水が堂宇を破壊し、その結果、背後の丘陵地へ移転することになりました。つまり、最初に作られた場所よりも「ちょっと高いところに引っ越しましょうか」という決断が下されたわけです。いわば、「もう洪水には懲り懲りだ」という人々の声が聞こえてくるようです。
756年、ちょうど聖武天皇がこの世を去った年、丹後国を含む26ヶ国の国分寺に仏堂荘厳具の一つである灌頂幡などが下賜されました。おそらくその当時の人々は、「おお、ありがたい仏具が来たぞ!」と喜んだことでしょう。820年や927年の史料には、国分寺の維持費として稲2万束が支給されたという記述があり、これを見て「国からの支援がこんなにたくさん!」と安心したことでしょう。
ところが、時は移り、律令国家の衰退とともに国からの財政支援も途絶えると、国分寺も次々と荒廃していきました。ここ丹後国の国分寺も例外ではなく、本尊の金銅薬師像が盗まれ、寺の跡地には狐や狼が住みついてしまうという悲しい状況に。しかし、そんな荒廃した姿を想像すると、つい「まあ、時代が変わるとこうも変わるものか」と思わずにはいられません。
ところが、鎌倉時代末の1328年から1334年にかけて、奈良の律宗西大寺派の支援を受けた僧・円源房宣基が再興を目指し、造営には大坂・四天王寺の大工と府中の大工が協力して、五重塔、金堂、中門、塀、堂舎などが『天橋立図』に描かれるほど立派なものが建設されました。まさに、「昔の栄光を取り戻せ!」という意気込みが感じられる再建プロジェクトだったわけです。
1334年4月には、後醍醐天皇の勅使が参列して盛大な金堂供養が営まれ、丹後や大和の僧たちが一堂に会して華やかな舞楽を披露。まさに「どんちゃん騒ぎ」と言えるほどの盛り上がりを見せたようです。このように、荒廃からの再興は、ただの建物の復元にとどまらず、地域の心の支えにもなったのだと思います。歴史の波に揉まれながらも、人々の努力と信仰が織りなす物語は、時代を超えて我々に語りかけてくるものがあります。
そして、時は進んで2023年11月。宮津市国分で行われた国史跡「丹後国分寺跡」の発掘調査で、室町時代の建物の礎石が発見されました。建物は金堂の北西に位置し、出土した礎石とそれを収めていた穴から、東西11.5メートル、南北5.8メートルという規模が推測されています。礎石は5個が残り、建物の南側には基壇の石組みと階段の跡が確認されました。なんだかロマンを感じますね。
こうして見ると、戦火や自然災害に耐えながらも、国分寺は何度も再建され、形を変えながら歴史の中で生き続けてきました。破壊と再建を繰り返すその姿は、日本人のしぶとさを象徴しているかのようです。私たちも、人生の荒波に揉まれることがあっても、何度でも立ち上がるその精神を見習いたいものですね。
歴史は時に厳しく、時に笑えるエピソードを残しますが、そこにはいつも人々の努力と信念が詰まっています。それが、今もこうして私たちに語りかけてくるのです。「もう洪水も戦火も勘弁してくれ」という嘆きが聞こえてきそうですが、それでもなお残る礎石を見ると、その場所にかつての人々の生きざまがしっかりと刻まれているように感じます。
今ここに立つと、かつての人々が味わった苦労や喜びが、まるで手に取るように感じられる気がします。けれども、正直言って、それも「公式版日本の歴史ガイドライン」に沿って私たちが教え込まれた感想であることは否めません。
実際、ここでどんな物語が展開されていたのか、どんなドラマチックな人生が織り成されていたのか、そんなことは、異次元の能力者でもない私にはぱっと見ではわかりません。
歴史の授業で教わるのは、いわば公式チャンネルで放送される「日本史ダイジェスト」。
例えば、ここでの出来事が、実際には隣人トラブルや焼き芋の奪い合いであったとしても、それが歴史の教科書に載るかどうかは微妙です。だからこそ、私たちが立っているこの場所も、実際にはどんなドラマがあったのか想像するしかないのです。公式には語られない、無数の「もしも」の物語が、この地に眠っている。そう考えると、歴史を感じる場所に立つこと自体が、ちょっとしたタイムトラベルみたいなもの。
歴史とは、選ばれた断片が記録されるものであり、時には都合に合わせて作り変えられ、後世に伝えられるものです。そのため、私たちが受け取る歴史は、必ずしも全ての真実を映し出しているとは限りません。むしろ、時代の流れや権力者の意図によって形作られた一面に過ぎない・・。
でも、そんな風に考えると、歴史ってまるで長編ドラマのディレクターズカット版みたいで面白くないですか?裏でどんなストーリーがあったのか想像してみるのも一興。
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