伏見奉行所が語る、愛と戦いと再生の歴史ドラマ
ここは、かつて伏見奉行所があった場所です。今では、ひっそりと佇む石碑と看板が、その豊かな歴史を静かに語っています。
伏見奉行所の物語は、豊臣秀吉が伏見城を築いたことで始まります。その城下町として発展した伏見町は、周辺の8つの村を巻き込んで、安土桃山時代から江戸時代初期にかけて商業と交通の一大拠点となりました。伏見城が廃城になった後、徳川幕府はこの地に伏見奉行所を1624年(寛永元年)に設置しました。単なる地方行政の拠点ではなく、伏見港の管理、西国大名の監視、そして京都御所の警備まで担当する、いわば「超多機能役場」だったわけです。
そして、ここで主役登場!初代伏見奉行に任じられたのが、小堀政一(遠州)。この方、ただの役人じゃないんです。茶の湯、和歌、書、画、さらには作庭までこなす超ハイスペックな文化人。伏見奉行所を移転した際には、自ら茶室や庭園をデザインしちゃうという、今で言う「DIYの達人」ぶりを発揮しました。「松翠亭」「転合庵」「成趣庵」という茶室や、伏見城の礎石を使った庭園など、見事な景観を次々と作り上げたそうです。
そして驚くべきは、あの徳川家康がこの風雅な奉行所を訪れた際、遠州のお茶を楽しみ、その庭園を絶賛したというエピソード。さらに3代将軍徳川家光も上洛の際にここを訪れ、同じく遠州の茶と庭を堪能したとか。将軍クラスをもてなすおもてなし力、恐るべし遠州!
そして何がすごいって、この伏見奉行所、ただの「お役所」ではなく文化的社交場としての顔も持っていたこと。遠州は20年間の奉行職在任中、京都や畿内の役人たちを招いて24日間の茶会を開催したこともあったとか。もはや公務の域を超えた優雅なひとときだったんでしょうね。いやいや、これぞ「お役所仕事」の極み。笑
ちなみに、ここに立つと「かつての庭園、散策してみたいな」と思わず妄想が膨らみます。当時の風景を目にすることはできませんが、遠州の手がけた庭や茶室がどれほど素晴らしかったか、想像するだけでわくわくしちゃいますよね。
1867年、王政復古の大号令が発せられた後、伏見奉行所はあっさり廃止され、まさかの「空き家」状態に。しかしその静寂も束の間、12月16日には新選組が会津藩兵とともに「伏見鎮撫」としてここに入居しました。
ところが、わずか2日後の12月18日、事件が発生。新選組局長・近藤勇が二条城から伏見街道を騎馬で帰る途中に狙撃され、右肩に重傷を負うという衝撃展開。この衝撃的な展開に、幕末の動乱と新選組を取り巻く緊張感が一気に浮かび上がります。負傷した近藤が伏見奉行所へ逃げ戻る様子を想像すると、その劇的なシーンには、ドラマを超えた現実の重みを感じずにはいられません。
襲撃の首謀者は、11月の油小路事件で新選組に暗殺された伊東甲子太郎の一派でした。彼らは薩摩藩伏見屋敷に匿われており、復讐の機会を狙っていたといいます。
伊東甲子太郎の暗殺も、また興味深い点を含んでいます。新選組は酒宴を催し、伊東を泥酔させた上で暗殺するという手法を用いました。この方法は、かつて芹沢鴨を殺害した際と同様です。このような暗殺の手法から見えてくるのは、新選組という組織が「駒として都合よく動けない者」を排除する冷徹な一面です。
幕末の日本は、混乱と焦燥が支配する時代でした。新選組もまた、時代の波に翻弄されながら生き残りをかけて行動していたのです。その中で行われた近藤勇の狙撃事件や、内部の粛清的な行為は、単なる事件ではなく、時代そのものを映し出す鏡のように思えます。
その後の展開も波乱万丈。12月30日には尾張藩士2人が訪れ、伏見奉行所からの退去を新選組に要求。年明け1868年、ついに鳥羽・伏見の戦いが勃発します。この時、新選組の指揮を執ったのは、負傷治療中の近藤に代わり副長の土方歳三。薩長軍との激しい戦いが繰り広げられました。
しかし、官軍による激しい砲撃の結果、ついに伏見奉行所は炎上、跡形もなく焼失してしまいます。その後、幕府軍は淀方面へと退却。戦火が残したのは、焼け跡と悔しさだけでした。
ここで、ふと思うんですよ。「もし鳥羽・伏見の戦いがなかったら、今頃この地で小堀遠州が手がけた素晴らしい庭園を散策できてたんじゃない?」と。歴史の「もしも」を考え始めると、なんだか勿体なくてたまりません。遠州の名庭を訪れ、茶室でのんびりお茶を楽しむ……そんな優雅なひとときがあったかもしれないのに、戦争のせいで全部台無しですよ!
それにしても、この伏見奉行所の運命の過酷さよ。築かれた時は栄華を極め、家康や家光をもてなした場所が、わずか数百年後には炎に包まれて消えていく。歴史って、ほんの一瞬で変わるんですよね。(続く)
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