長いこと気になって仕方がない神社が在る。
 藤沢市葛原に見る神社だ。
 品川駅を過ごし、多摩川を渡るや、東海道新幹線の轍路は見事に綺麗な一直線を成して相模の僻隅に位置する小田原駅まで延びる。
 湘央の地で新幹線の轍路を間近くした宅地の点在する農村部に森閑とした社叢林を擁して、皇子大社と号する社は葛原親王を祀るとする。
 桓武平氏の祖・葛原親王の異母兄たる平城・嵯峨・淳和らは輩行即位したが、3天皇らの生母は皆平安初頭に没落する藤原式家を出自としていた。
 然るに、異母兄らとは運を異にして即位しなかった葛原親王の生母は多治比真宗であった。

 仁徳天皇陵を見る河内国丹比たじひ郡は応神天皇の後裔が皇居を営んだ地であったが、多治比の一族は上野・武蔵の国境を成す神流川に臨んだ武蔵国加美郡下に丹荘と号する荘園を営み、製鉄に従っていたと云う。
 平安期の武蔵国秩父郡に蟠踞した封建領主一族の祖・平忠頼は経明なる別諱を今に伝えるが、『将門記』には将門配下の将として多治経明なる名を見る。
 秩父平氏の祖・忠頼の生母を大野茂吉の娘と伝え、秩父氏祖が恰も江戸期の百姓家に生まれたかの如き錯覚を与えることは失笑を禁じ得ないが、大野茂吉は"多の茂吉"の意であると思われ、『古事記』の草稿を書いたとする太安万侶の生家が纏向遺跡を間近くした大和国十市郡飫富おお(飫=飽)を本貫とする多氏であり、纏向遺跡を擁する大和国磯城郡に皇居を営んだ三輪王朝に続く、河内王朝の皇族となった氏族であろう。
 708年秩父盆地の黒谷郷で史上初となる自然銅が発見され、その3年後となる711年、朝廷は秩父盆地を近くした東山道の通う上野国の一角に多胡郡と号する小郡を新設しており、斯地には日本三古碑の一つとなる石碑が建立され、碑文の末尾に往時の朝廷で銅貨鋳造の責を任じた多治比三宅麻呂に該る名を刻み、古碑を今に遺す群馬県高崎市吉井町には碑の建立された地から多治比一族が荘園を営んだ武蔵国加美郡へ向かう方角の途上、"多比良"の地名を見せ、平姓とは多治比の良血が流れる意であることを教える。
 良の字をラと読むのは羅の字を藉りたものであり、この場合血脈を伝える意であって、朝廷が8世紀初め関東の一隅に新設した郡名・多胡は多治比氏が中国の古典籍が伝える胡族であったことを示している。
 胡族とは中国王朝の版図外から来た中央アジア・西アジアの部族であることを指す。

 秩父氏祖・忠頼の室は将門の娘であったと伝え、息・忠常は房総一帯を亡国と言わしめる程の荒廃を与えた叛乱を演じ、後裔を『吾妻鑑』が鎌倉幕府創業の功臣と讃えた千葉常胤とする。
 そうして、秩父氏祖・忠頼の弟・忠光の後裔をまた千葉常胤と並び『吾妻鑑』が鎌倉幕府創業の功臣と讃えた三浦義明だと伝える。
 相模の大身・三浦氏の源流を平忠光ー三浦忠通と伝え、"ただみつ"・"ただみち"なる父子は後世の虚構と思われ、『今昔物語集』に見る源頼光の郎党・平貞道なる者に仮託したものと思料される。
 平貞道なる者は虞らく安房国平群郡を本拠に一衣帯水の土地柄となる相模国三浦郡に進出した平群氏を出自とした者と思われ、大和国平群郡を本拠とした河内王朝の権臣・平群真鳥の後裔であろう。
 秩父平氏・千葉氏の家祖とする平忠頼と相模の大身・三浦氏の家祖とする平忠光ら兄弟の偏諱2文字である頼と光を併せたならば、藤原道長の郎党として朝家に武名を挙げた源頼光の諱を成す。

 秩父平氏の祖として多治比氏を出自とした忠頼から秩父郡の支配を襲った将恒は三浦忠通の娘を室に迎え、忠頼のもう一人の息として千葉常胤の遠祖となる平忠常は将門の従兄に該る平公雅きんまさの娘を室に迎えたと伝える。
 将門は公雅の父として上総を本拠とした平良兼を滅ぼし、公雅は関東一円を席捲するほどの猛威を振るった将門に圧され、安房国平群郡から相模国三浦郡に進出していた三浦氏の後援を得て、相模国に渡ったものと思われ、それが鎌倉郡・高座郡に拡がった鎌倉景政の後裔らで、三浦義明の菩提寺となる神奈川県横須賀市大矢部の満昌寺が伝える古記録は鎌倉景政の祖を平公雅と記している。

 秩父平氏祖・忠頼の曽孫となる武綱は父祖伝領の地を支配しながら、武蔵国南部を東西に流れる鶴見川中流の地に活動拠点を構え、小机基家の別名を後世に伝えている。
 秩父武綱=小机基家は後三年の役における軍功に因り、源義家から豊嶋郡下に谷盛荘を与えられ、東京・渋谷に見る金王八幡宮は基家の息・河崎重家の居館址と云う。
 河崎重家の居館址としては別に川崎市の堀之内が知られるが、重家の息・渋谷重国が支配した地が皇子大社を今に遺す相央の地一帯であった。
 渋谷重国の後裔は鎌倉期に北条得宗家被官として鹿児島県薩摩川内市へ遷っていったが、日露戦争で名を馳せたアドミラル東郷が遠祖の故地として綾瀬市下に在る早川城址公園の一角に自ら揮毫した石碑を建立している。
 武士の抬頭を著しくした12世紀、相模国高座郡に平姓・鎌倉景政の卑属が拡がっていった中、同郡北部の地に秩父平氏の流れを汲む渋谷重国が領知を軌道に乗せるべく、鎌倉景政の後裔らとの衝突を慮った緩衝地として、葛原親王を祀る社が建立されたものだろうか。