第1回書店で声をかけてきた彼は北朝鮮外交官 南北の壁を越えた愛の実話
連載「それでも、あなたを」北朝鮮・韓国編①
2000年代のある年、晩秋のモスクワ。
ユン・ミナは、韓国系の店やレストランが集まる市南部の通りを歩いていた。
韓国系の店がそれほど多いわけではない。韓国料理のレストランのハングルの看板がちらほら見えるような場所だ。
あーあ、たいくつだな。このころのミナの心境は、その一言に尽きた。
韓国の港町で1970年代末に生まれた。幼いころからの夢はピアノ奏者として外国で活躍すること。高校時代にロシアの有名な音楽学校に留学した。
それから約10年。ミナはロシア語の通訳になって暮らしていた。
30代も半ばにさしかかっていたが、出会いもなかった。仕事が好きなミナの理想のパートナー像は、スマートで仕事ができる人。
でも、韓国人の男性はロシアの大学への留学生も、通訳をする仕事相手も、ミナを頼るばかり。自分で道を切り開く、そんなたくましい人はいないのか。「頼られる」ことにうんざりしていた。
そんな気持ちをまぎらわそうと、ミナはよく韓国書籍の専門店を訪れた。
胸元にリボンをあしらった白いブラウスと黒のタイトスカート、丈の高い革のブーツ。長いモスクワ生活で、ロシア人のようなファッションも着こなせるようになった。
書店は2階建て雑居ビルの1階にある。経営者は韓国人だ。
100平方メートルにも満たない小さな書店だが、本棚にはハングルの背表紙がずらっと並ぶ。韓国の映画やドラマのDVDのレンタルもしていた。
午後3時ごろ。窓から差し込むロシアの晩秋の日はだいぶ傾いていた。本を何げなく手にとって飛ばし読みしていると、突然、男性がロシア語で声をかけてきた。
「失礼します。韓国のことでいろいろ調べたいことがありまして……」
顔を横に向けると、ダーク系のスーツから、えんじ色のタートルネックがのぞく。視線を上に移すと、髪も目も黒い。背丈は180センチ以上だろうか。年齢は自分と同じくらいに見えた。
「仕事のことで韓国の国内事情を調べています」。こう男性は説明し、どんなインターネットのサイトが役立ちそうかミナに尋ねてきた。
ミナもロシア語でハキハキと要領よく答えた。会話の途中、男性は携帯にかかってきた電話をとり、ロシア語で会話を始めた。え、うまい! あいさつだけでは分からなかったが、ネイティブなみの流暢(りゅうちょう)さだった。
会話を終えた男性が再びミナに向き合って、口を開いた。
「ウリ(私たち)の言葉にしても大丈夫ですか?」
今度は「韓国語」だった。ただ、イントネーションがちょっと違う。韓国語の方言でもない気がする。
「韓国人なのですか?」
ミナが聞いたが、男性は違うという。どの国ですか? 重ねて尋ねると、男性は少し間を置いて答えた。
「実は、北朝鮮です」
連載「それでも、あなたを 愛は壁を超える」
民族、宗教、人種、身分、偏見、国家体制…。世界には、人と人とのつながりを阻む様々な「壁」があります。それでも、出会い、固い絆で結ばれた2人がいます。当事者の証言などから、そんな壁を乗り越えた2人の物語をつむぎ、その背後にある国際問題のリアルを伝えます。
ミナの世代は子どものころ、韓国で厳しい「反共(反共産主義)教育」を受けた。「北朝鮮人に会えば殺される」。学校では先生からそう教えられたほどだ。
でも、そのときは、そんなことを全く思い出さなかった。ロシア語は難しいのに、この人はなぜこんなに上手に操れるのだろう? ミナにとって最大の関心事は、そっちだった。
「ロシア語、すごい上手ですね! どこで学んだのですか?」
男性の硬い表情が少し和らいだように見えたが、「仕事で学んだ」としか答えなかった。でも、ミナは男性のロシア語の正確さが気に入った。ちょうどこのころ、通訳でかなり専門的な仕事を受けており、壁にぶつかっていた。
北朝鮮だろうと何だろうと、これも何かの縁。そう考え、男性に持ちかけた。
「そこまでロシア語が上手なら、ちょっとだけ助けてくれませんか」
専門用語ばかりの書類の翻訳を男性に頼んだところ快く引き受けてくれた。
北朝鮮の人は貧しく十分に学べない人が多い。ミナはそう思い込んでいた。だが男性は、まったく違う雰囲気をまとっていた。
この人といれば、新しい何かが始まる。ミナの好奇心の対象はロシア語から、いつの間にか男性そのものに向かっていた。
お互いに自己紹介をすると、男性は「リ・サンヒョク」と名乗った。携帯電話の番号を交換して、その日は別れた。
しかし、ミナは次の日から、旧ソ連の国々を出張で回った。仕事に追われているうちに、サンヒョクの番号を登録していた携帯電話をなくしてしまった。
ずっと温めてきた「計画」
サンヒョクは、ロシア駐在の北朝鮮外交官だった。
ミナと知り合った数日後、彼女の携帯電話を鳴らした。しかし何度かけても、ミナは電話に出なかった。
なんだ、だまされたのか……。そんな思いが頭をかすめた。
ミナに会う2年ほど前に赴任した。しばらくはロシア連邦保安局(FSB)の監視が厳しく、外出時は尾行されていた。
それだけではない。北朝鮮の同僚からも監視された。サンヒョク1人だけではなく、他の外交官も同じだった。それが当たり前で、おかしいとも思っていなかった。
だが赴任から2年ほどがたった頃だろうか。尾行や監視の気配を感じなくなった。サンヒョクは、ずっと温めていた「計画」を実行に移すことにした。
韓国人と実際に接する。
韓国人との接触は固く禁じられていた。ロシア側の尾行や、同僚たちの監視によってバレたら、大変なことになる。
それでも、祖国は外からはどう見えているのか、韓国人や韓国の書物に接することで知りたかった。
今なら、うまくやれるかもしれない。
そこで出かけたのが、あの書店だった。サンヒョクは自分が北朝鮮人だと明かしたとき、ミナに警戒して避けられると思った。
ところが、逆に聞かれたのはロシア語の語学力。「そっちかよ」と笑いそうになってしまった。
一目ぼれしたわけではない。でも物おじせず、好奇心にあふれたミナが強く印象に残ったのは確かだ。
それなのに。
サンヒョクはその後も、韓国の本やDVDを求めて書店に通った。
ミナはどうしているだろう。親しくなった店員に、サンヒョクは愚痴半分であの日のことを話した。
「2カ月ほど前、ここである女性に会ったんだ。電話番号を交換したんだけど、それきりだよ」
すると店員が何かを思い出したようだった。
「忘れてた!」
その時よりかなり前だったが、ミナが書店を訪れ、新しい番号をサンヒョクに渡してくれと店員に頼んでいたのだ。
サンヒョクはポケットにミナの電話番号を記したメモを忍ばせ、北朝鮮大使館に戻っていった。(続く)
モスクワなどを舞台に、北朝鮮男性と、韓国人女性の間に芽生えた愛を描きます。2人や韓国政府当局者らへの取材に基づいた実話ですが、2人の安全を確保するため、記事では仮名を使い、一部の地名や時期をあえて特定していません。