深浦九段と豊川七段は四段同期 最終戦前、運命変えた松岡修造選手
「僕が棋士番号200番で、立会人の深浦(康市)さんが201番。奨励会の後輩だし年齢もぜんぜん下ですけど、四段昇段の同期です」と豊川孝弘七段は語る。
豊川七段と、深浦康市九段。2人で昇段を喜んでいる写真が当時の雑誌に掲載されている。
名人への道のりは奨励会時代から始まる。副立会人の豊川孝弘七段と、立会人の深浦康市九段が順番にユーチューブ「囲碁将棋TV」の解説に登場。北野新太記者に、プロ入り当時の思い出を語った。
「当時は三段リーグを上がると、奨励会幹事の先生たちと打ち上げをするんです。食事会、一人前ということで。あのとき深浦さんは19歳でしたけど、玄関で写真を撮りました。覚えているのは、体が軽くなったこと。8年9カ月奨励会をやって、僕の時は三段リーグの規定で次点2回で昇段とか、勝ち越したら年齢制限を延長できるとかなかったですから」
明るい語り口で振り返りながら、豊川七段は奨励会の日々は「地獄」と言い切った。プロになれない恐怖と戦っていた。
「僕は22歳で三段リーグ入りしたんですが、リーグ戦が始まるまで4カ月半待ったんですよ。あの地獄の日々も覚えています。だって三段リーグは(年齢制限まで)7期チャンスがあったんですけど、あの中で1着2着になるって、正直自信ないですよ。僕も一生懸命やってましたけど、ダメだったらどうしようっていう恐怖感。4カ月半将棋が指せなくてつらかったですし。1期目次点だったときは死にそうになりましたよ。こんなの2度もとれないと思って」
昇段できるのか。プロになれるのか。不安にさいなまれながら将棋に向き合う日々。チャンスは再びやってきた。
「三段リーグ4期やったんですけど、深浦さんとあがった三段リーグは最終日、自力じゃなかったんですよね。3着ぐらいだった。1局目を終わって判子を押しにいったら、『お、自力になってんじゃん』と。当時、昼飯も食う気しないから、東京体育館の横に芝生があるんですけど、そこで横になっていたんですよ。空を見て」
大一番を前に、不思議な出会いがあった。テニスの松岡修造選手が、そこにいた。
「松岡修造が練習していたん…
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