第3回ガンダムの原点にある熱狂と挫折 安彦良和がアニメの世界に入るまで
歴史漫画の巨匠にしてアニメーション監督の安彦(やすひこ)良和さん(74)は、30代に入ったばかりのころ、総監督の富野由悠季(よしゆき)さんとともに、出世作「機動戦士ガンダム」(1979年)で「正義なき世界」というテーマを描いた。それは、東西冷戦の時代に社会主義陣営に対して抱いた期待と幻滅への、自分なりの清算だったという。
そうした境地に至るまでの道筋をさらにさかのぼれば、学生時代にリーダーとしてかかわった全共闘運動にたどり着く。安彦青年はなぜ政治運動にのめり込んだのか。そして、その後アニメの世界の住人になったのは、どういういきさつからだったのか。
【連載】ガンダムと戦争と歴史と 安彦良和が語る
「機動戦士ガンダム」の生みの親の一人である安彦良和さんに、新作公開を機にその世界観を存分に語ってもらいます。
北海道の高校時代 名物教師に感化され
――学生運動に加わったのは、やはりマルクス主義への傾倒や「東側」への憧憬(しょうけい)があったからですか?
「地元の北海道遠軽(えんがる)高校に通っていたころ、名物教師がいて、その課外授業がとても面白かったんです。中国革命での八路軍の活躍と、唯物史観などマルクス主義の基礎を学ぶというものでした。日教組教育を目の敵にする人や文部科学省からしたら、目をむくような内容です(笑)。ハシカにかかるように、それに感化されてしまいました」
「当時、世界の焦点はベトナム戦争にありました。あの戦争は社会主義陣営対資本主義陣営の闘いであり、米ソの代理戦争だったわけですが、大国アメリカが理由をつけて最新兵器で小国を焼き払うさまに怒りとしか言えない感情が湧いて、必然的に『反米』になったわけです。しかも、米軍統治下だった沖縄のみならず、横田基地や三沢基地は弾薬や物資の中継・補給の生命線となり、横須賀基地はベトナムを攻撃した空母の事実上の母港になった。日本は平和憲法を持っているというけれど、明らかに戦争に加担している。後方拠点として一貫してアメリカの戦争を支えながら、それを直視していない。そういう欺瞞(ぎまん)がまた、許せませんでした」
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〈米軍による北爆が始まった65年当時、安彦さんはこの高校の生徒会長だった。当時の西側陣営の若者による平和運動はすなわちベトナム反戦運動であり、それはそのまま自国政府批判に結びついていた。翌年、弘前大に進学した安彦さんは、全国的な学園紛争の高まりとともに、学生運動の世界に深入りしていく〉
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――入学後に共産党系の民青に入ったとのことですが、早々に離脱して弘前大全共闘を立ち上げたのは、党派の活動に疑問を感じたからですか?
「学生運動イコール左翼イコ…