第1回耳ふさぎたくなった母の言葉 高2でスケート靴捨てた私が今思うこと
「やるからには、オリンピック選手になるつもりで」
幼い頃、指導する先生に言われた。
疑うことなく、オリンピックは将来の夢だった。
10月15日、記者サロン「子どもたち、スポーツつらくない?」
フィギュアスケートの英才教育のリアルについて、コーチの林渚さん、スポーツ教育学者の平尾剛さんと議論します。ぜひご試聴ください。
野亀友里恵さん(35)、旧姓は阿部。
羽生結弦らが輩出した「フィギュアスケートどころ」の仙台市で生まれ育った。4歳上の兄はフィギュアを習っていた。
自身も2歳で滑り始めた。
小学生になると、通っていた教室の選手コースに入った。
当時、フィギュア界を牽引(けんいん)していた本田武史さんや荒川静香さんらに交ざって滑った。
練習は毎日、午後4時半から4、5時間。休日や長期休暇には朝練もあった。
物心つく前から、「風呂に入るのと同じ感覚」で毎日、氷上に立っていた。
たまに病気で立てないことがあると、変な感じがした。
指導者が30回ジャンプをしろと言えば、30回こなす子どもだった。
周りの子は嫌そうな顔をして、怒られているのに。
リンクでの朝練後、場所を移してバレエや体操の練習もした。
他の子は嫌がって、その練習に自分しか行かない日があっても。
「言われたことはやるタイプ。一つずつできることが増えるのが楽しいと感じていた。体が柔らかくて、ビールマンスピン(背後に高く片足を上げて回転する技)が右足でも左足でもできた」
そのビールマンも、先生が「できるようにしよう」と言ったから、できるようにしただけだ。
できたのは、1人だけだった。
親は熱心だった。
練習の送り迎えはもちろん、きらびやかな衣装を自前で用意したり、県外への遠征費用を出してくれたり。
決して軽くはないだろう負担をしながら、バックアップしてくれた。
成績は順調に伸びた。
小学生の全国大会で2位に入った。その時の1位は安藤美姫さん。後に2007、11年の世界選手権を制した人だ。3位は太田由希奈さん。こちらは04年の四大陸選手権で優勝している。
ただ、野亀さんに、シニアの大会での成績はない。
高校2年生の時にフィギュア…
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