聞きたかったこと 広島
「被爆者はまもなくいなくなる。記録を細かく残しておかなければ、次の核戦争が始まるということになりかねない」。兵庫県川西市の山崎恭弘(やまさきやすひろ)さん(90)は、集めた資料で埋め尽くされた棚を見せてくれた後、私に言った。
1945年8月6日、米軍が投下した原爆で運命が変転した本川(ほんかわ)国民学校(現・広島市立本川小)の同級生の名簿作りに心血を注いできた。
恭弘さんを突き動かしてきた思いを聞きたかった。
78年前の8月6日朝、旧制広島高等師範学校(現・広島大)付属中学1年の恭弘さんは広島市沖の能美(のうみ)島・美能(現・広島県江田島市)にいた。
1年生たちは農業支援のため広島県賀茂郡原村(現・東広島市)に派遣されていたが、恭弘さんは体調を崩して広島市の自宅に戻り、8月4日に島へ疎開していた。
父、母、末弟と朝食をとっていたときだった。北向きの窓がぱっと明るくなった。
驚いて外に出ると、巨大な火…