Re:Ron連載「西田亮介のN次元考」第2回
2022年7月8日の安倍晋三元首相銃撃事件から1年が過ぎた。憲政史上最長となった政権を担った現職の政治家が、参院選の応援演説のさなか、多くの人の目の前で銃撃されて死亡するという、衝撃的な事件だった。
一周忌を受け、新聞、テレビ、雑誌などのメディアは、この事件にからみ様々に報道をした。政治と暴力、旧統一教会と自民党の関係、安倍氏不在の政治状況など多岐にわたったが、筆者の目には特段の目新しい掘り下げもなく、現状をただなぞっただけのように映った。
そんななか、気になっていることがある。国葬儀についてだ。
安倍氏が亡くなった直後、岸田文雄首相は「国葬儀」を行うと表明。2カ月後の9月27日に、1967年におこなわれた吉田茂・元首相以来となる、戦後2例目の国葬儀が執り行われた。類似のものに1975年の佐藤栄作元首相の「国民葬」があるが、近年、首相経験者の葬儀は「内閣・自民党合同葬」が慣例になっており、異例の決定であった。
当時、国葬儀をめぐり世論の賛否は割れた。報道各社は大いに報道し、政府も検討を約束した。しかし、1年近くが経って、なんらかの結論が出たり、議論が深まったりした様子はない。政府の姿勢に問題があるという指摘は当然あるだろう。しかし、メディアを専門にする筆者としては、報道各社の掘り下げ不足、粘着力のなさに懸念を持たざるを得ない。
たかが国葬儀というなかれ。この問題からは、近年の政府とメディア報道の関係性が、そこに潜む病巣とともに浮かび上がってくる。一言でいうと、凡庸な思考停止だ。こうした意識のもと、本稿では国葬儀について、改めて考えてみたい。
政府は国葬儀、メディアは国葬
筆者はここまで故安倍氏の「国葬儀」と書いてきた。読者の中には、「国葬」ではないかと思われる方がいるかもしれない。
確かに、朝日新聞をはじめ報道各社はほぼ一貫して「国葬」という表現を使っている。一方、政府は「国葬儀」という。なぜか。皇室典範で規定された「大喪の礼」を事実上の「国葬」としているためだ。安倍元首相の葬儀は、国の主催ではあるものの、国葬である「大喪の礼」とは異なる「故安倍晋三国葬儀」(閣議決定による正式名称)として執り行ったという主張だ。
これに対し、国葬儀への賛否を問わず、報道各社は総じて「国葬」と書いている。一般の人に分かりやすいというのが理由のようだ。であれば、その旨を読者にきちんと説明したほうがよかったのではないか。それによって、逆に「国葬儀」という表現を使わざるを得なかった政府の立場、そこから透けてみえる岸田政権の泥縄的な対応を、象徴的に提示することができたはずだ。
過剰な情報と伝えるツールの…