第1回取材断られ…記者は町に住み込んだ 米記録映画で論争、漁師たちの今
和歌山県太地町で続くクジラやイルカの追い込み漁。ドキュメンタリー映画「ザ・コーヴ」で批判的に描かれ、論争の的になりました。漁師たちはどんな人たちなのか。日々何を考えているのか。漁師たちのいまを伝えます。
午前6時すぎ。冬の朝はまだ暗い。
わずかに光を放っているのは街灯と自動販売機だけ。空には星がまばらに輝いている。
軽トラックが1台、また1台と漁港に入ってくる。
長靴をはいた男たちが軽トラックから降りて、漁港の一角に集まりはじめた。小型のクジラやイルカを湾に追い込んでとらえる「追い込み漁」の漁師たちだ。
ベンチがコの字形にならぶ。そのまん中にドラム缶が置かれている。彼らはここを「浜」と呼ぶ。毎朝の集合場所だ。
最初に来た漁師がドラム缶に廃材や段ボールを詰め、ライターで火をつける。燃えひろがって、ドラム缶いっぱいのたき火になる。
50代半ばのこの漁師は毎朝一番早く浜に来る。
「ほかの人が来たときに火がついたぁったらうれしいやろ」
いつもニコニコしているこの人が、漁師のなかで何となくたき火係になっている。
手元の温度計で7・1度。1月早朝の海辺の空気は冷たい。漁師たちはたき火に背を向けて立ったり、ベンチに腰かけて火に手をかざしたりしている。
「山芋掘りに行ったらよ、帰るころには腕がかいくなってきてな」
「しめサバはあたることあるねえ」
この日の話題はこんなものだ。
ほかにも、前日にとれた魚をこんなふうに料理して食べただとか、たわいのない話をしている。
クジラやイルカの追い込み漁は都道府県知事による許可制の漁業だ。正式名称は「鯨類追込網漁業」という。
太地町では和歌山県知事から許可を得た12人の「親方」が1隻ずつ船を持っていて、12隻で船団を組んでクジラやイルカを追い込む。
親方1人につき、補助的な役割をする「乗組員」が1人ずつつくから定員は24人。
9月から翌年4月にかけての漁期の間、24人の定員で構成されるのが「太地いさな組合」だ。鯨魚(いさな)は万葉集にも登場する古い言葉でクジラを意味する。いまは乗組員4人が欠員で、20人だ。
クジラとイルカは同じ鯨類の仲間で、生物学的に明確な違いはない。体が小さな種を「イルカ」と呼ぶが、その線引きはあいまいだ。漁師たちも「クジラ」と呼ぶときもあれば「イルカ」と言うときもある。
漁師たちの集合場所になっている浜のとなりに船着き場がある。船が12隻ならんで停泊している。どれも10トン未満と小型だ。
乗組員は一足先に浜を離れ、それぞれの船で出航準備をしている。
空が白みはじめた午前7時まえ、親方も船に乗り込んで12隻が沖へ向かう。
「HUNTERS ARE HEADING OUT TO SEA(ハンターが海へ出ていく)」
船が港を出て数十分後、漁に反対する団体のSNSにこんな文言が投稿された。
ドキュメンタリー映画の舞台に
紀伊半島は太平洋に大きく突きでている。近くをクジラが回遊する。太地町はその恩恵を受けてきた。
江戸時代はクジラにもりを突きたてる「古式捕鯨」で栄え、明治に入って古式捕鯨がすたれたあとも、漁法や場所をかえながら捕鯨をつづけてきた「クジラの町」だ。今年7月時点で2641人が住んでいる。
紀伊半島の片隅にあるこの小さな町が、1本の映画によって世界的に有名になった。2009年に公開された米ドキュメンタリー映画「ザ・コーヴ」。太地の追い込み漁を批判的に描き、米アカデミー賞長編ドキュメンタリー賞を受賞した。
映画は、漁師たちがイルカの群れを入り江に追い込んで捕殺する場面を映し出した。アカデミー賞受賞後の記者会見で、ルイ・シホヨス監督は「日本人はこの映画を見て、食べる肉のためや娯楽のために動物を利用するべきなのかどうか、自分で判断してほしい」と語った。
追い込み漁や漁師たちは論争の的になった。漁に反対する人たちが海外から町に押しよせ、漁師たちに抗議した。
そもそもクジラやイルカの追い込み漁はどんな位置づけにあるのだろう。
国際捕鯨委員会(IWC)による資源管理の対象はナガスクジラなどの大型鯨類だ。日本近海の「いるか漁業」は国際的な規制の対象ではなく、都道府県知事の許可制になっている。8道県が許可を出している。
追い込み漁の許可が出ているのは和歌山と静岡の2県。静岡は04年を最後に捕獲実績がなく、実態として追い込み漁があるのは太地だけだ。
朝日新聞和歌山総局で記者をしている私がはじめてここで追い込み漁を見たのは、21年の秋だった。とある取材先から、町での反対運動の主体がこのごろは外国人ではなく日本人になっていると聞き、興味を持った。
はじめて訪れた太地は、のどかな漁師町だった。漁師たちはのんびりした足どりで船に乗り込んでいく。この人たちが映画の題材になり、それがアカデミー賞をとる。目の前にある日常と、世間で語られていることが、どうにもかみ合わない。
町で追い込み漁に抗議するプラカードをかかげている人たちに話しかけてみた。みな、自分がなぜ漁に反対するのかを熱心に語ってくれた。
一方の漁師たちは、どんな人たちなのだろう。日々何を考えているのだろう。
太地町漁業協同組合に取材を申し込んだが断られた。漁期の間、何度か町に来て漁師に話しかけるチャンスをうかがったが、彼らの世界に土足で踏み込んでいくように感じられて気が引けた。
追い込み漁にまつわる本を手にとり、ドキュメンタリーも見た。議論の争点や町の歴史を描くものが大半で、漁師たちの日常や考えはほとんど見えてこなかった。
世界的な論争のなかで、20人はベールに包まれているようだった。
映画やSNSには映りきらない彼らの姿を知りたいと思った。
翌22年の春、私は町内に一軒家を借りた。漁師たち本人に話を聞き、それを輪郭だけでも理解するには、ここで生活するしかないと思った。
それから約5カ月。漁期が始まる9月の直前、漁師たちに取材を申し込んだ。
「俺らは情報発信ができへんから」「何にも隠してないで」。取材を受けてくれることになった。
翌春まで、22年度漁期のほとんどを太地で過ごした。
私が見た漁師のいまを伝える。
この記事は連載「クジラのまち、その後」(全10回)の初回です。 初回のおわりでは、太地町のクジラ漁の歴史を紹介します。
太地町とクジラ漁
太地町は「古式捕鯨発祥の地…
- 【視点】
僭越ながら「よくぞやった」と思いました。時間をかけて地域に溶け込み、取材対象に向き合う手法は、地元にいる人にしかできない仕事です。この主題に挑んだ記者の心意気と、地方取材網の縮小に反比例して増えた雑務に追われながらも、若い同僚の取り組みを認
…続きを読む