性別変更という「社会への証明」の過酷な痛み 明日を生きられる道を
大学研究員・勝又栄政さん寄稿
2023年9月。オンラインニュースのある記事が目に留まった。
「性別変更に関する手術要件は『撤廃すべき』」
トランスジェンダーが性別を変更する際に性別適合手術を求める法律の要件が憲法に違反するかを問う家事審判について、近々、最高裁が判断を示す。記事では、トランスジェンダーの当事者たちが法律の要件をなくすよう求めていることが紹介されていた。
日本では、2004年に施行された性同一性障害特例法で定めた五つの条件を満たせば、戸籍上の性別を変更することが可能となった。ただし、その要件自体は当事者にとって非常に重い。特に「生殖腺がない、または生殖腺の機能を永続的に欠く状態」を求めるなどのいわゆる「手術要件」が、今回の裁判では問われているという。
日本では過去にも同様の裁判があり、19年時点での裁判結果では手術要件の撤廃は認められなかった。理由は、「変更前の性別(女性)の生殖機能により子が生まれれば、親子関係等にかかわる問題が起こり社会に混乱を生じさせかねない」という親子関係に関する内容が主であったが、いま、社会の一部では「未手術の性自認女性が女性スペースへ入ることへの懸念」も問題として挙げられている状況である。
以上のような「これから社会に混乱が生じる」という可能性や懸念について話し合ってゆくことは非常に重要である。しかし、私はどうしても、「未来に起こりうる問題」が大きく取り上げられて話され、「すでに起こっている問題」や、問題に伴う“痛み”について触れてもらえていない、そのような気がしてしまい、ふと悲しさがこみ上げてしまう。
「私たちは、すでに混乱の中を生きているのに……」
そう感じてしまうのは、私自身の体験にあるのかもしれない。
世の中に“自分”がいない
私は「出生時に割り当てられた性は女性(身体の性が女性と見なされそのように判断された)、ジェンダーアイデンティティーは男性」に当てはまる、トランスジェンダー男性の当事者である。もちろん、このような説明をできるのは今だからこそである。長年、人に説明することはおろか、自分自身がどのような状態にあるか理解するための言葉すら持たなかった。
物心ついた頃から、周囲が“女性”と呼ぶ人々と“自分”との間に大きな隔たりを感じ、ピンク・スカート・人形遊び・言葉遣い・しぐさ・体つき……社会から求められる“女性像”のほとんどが自身と乖離(かいり)していた。言葉にできない乖離の“痛み”から、やがて私は二つの選択肢へと追い込まれることになった。
「“女性”のままで死ぬ」か「“男性”となり生きる」か。
この2択の未来に追い詰めら…