15歳の生死分けた乗務当番 同級生は「おかあちゃん」と叫んで…

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西本秀
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聞きたかったこと 広島

 「あのとき、私は15歳でした。みなさんと同じくらいだったんです」――。

 広島で被爆した豊田冨士子さん(93)は11月16日、地元の岡山県倉敷市の新田中学校で自らの体験を語った。

 講堂に集まった生徒は、2年生の約260人。来年、修学旅行で長崎に出かける予定で、原爆のことを事前に学ばせたいという学校側に、講師として招かれた。

「広電女学校」で授業だったあの日午前

 広島県の東部、現在の神石高原町で生まれ育った豊田さんが、広島市で暮らし始めたのは1944(昭和19)年春だった。市内で路面電車や乗り合いバスを運行する広島電鉄が開設した、全寮制の「広島電鉄家政女学校」に入学したのがきっかけだ。

 男たちが次々に出征して人手が足りなくなるなか、女性乗務員を養成しようと、43年にできた学校だ。生徒は午前と午後の当番に分かれ、半日は学校で授業を受け、半日は電車やバスの乗務員などを務めた。2期生の豊田さんが配属されたのは、バスの車掌の組だったという。

 「生死を分けたのは、午前と午後の当番の違いでした」

 45年8月6日午前は、学校…

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この記事を書いた人
西本秀
長崎総局次長|編集デスク
専門・関心分野
戦後社会の変容、台湾政治
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