「我々の価値観を根本から覆した」欧州に天児牛大さんが与えた衝撃
腰を深く落とし、地球の中心とつながろうとするかのように、がに股で大地をぐいと踏みしめる。時に泥だらけになって土を這(は)い、震える両手をもどかしく天に差し伸べる。
東北出身の土方巽(ひじかたたつみ)が戦後に創始した、いわゆる「暗黒舞踏」は1960年代、人間性を置き去りにする時代へとひた走る、高度経済成長の機運に対する強烈なアンチテーゼであった。鈴木忠志、唐十郎、寺山修司といった演劇人はもちろん、高松次郎、赤瀬川原平、中西夏之の3人で結成したハイレッド・センターなど、多くの前衛芸術家の精神の核となり、アングラブームを象徴する存在となる。
澁澤龍彦や三島由紀夫ら、文筆家のインスピレーションをも大いに刺激したのは、舞踏という芸術が、重力にあらがい、ひたすら天を目指すバレエなどの西洋芸術に対する異議申し立てに他ならなかったからだ。肉体という「不自由」もろとも、世界をあるがままに受け入れる。舞踏が志したのはまさに、戦後の日本人に精神の在り方をあらためて問う、価値観の革命だった。
そんな土方たちの舞踏に打ちのめされた天児牛大(あまがつうしお)さんは、団塊の世代だった。「東北の自然に鍛えられた土方さんの肉体も、戦争の荒波にもまれた大野一雄さんの肉体も、僕は持っていない。横須賀生まれのほっけりした(天児さん自身の言葉)この心もとない体ひとつで、いったい何ができるのか。ずいぶん悩んだけれど、最後はなるようにしかならないと気付いた」と当時を振り返り、語ってくれたことがある。
75年に「山海塾」を創設。そして80年、代表作となる「金柑(きんかん)少年」の圧倒的な「過剰さ」で世界をノックアウトする。千数百匹のマグロの尾を背景に打ち付け、生きたクジャクを舞台にのせる。クッションも何もない舞台へ、天児自ら背中からまっすぐバタンと倒れ、最後は10分にも及ぶ逆さづり。仏ルモンド紙は「我々の知覚、価値観を根本から覆した」とその驚きを伝えた。
ほどなく最先端のアートの拠…