1994年6月に長野県松本市で猛毒のサリンがまかれ、8人が死亡、約600人が重軽症を負った事件で、朝日新聞は、捜査の動きを時系列に記した警察庁の内部文書を情報開示請求で入手した。文書には、当日以降の状況が刻々と記録されていた。あの日、前例のないテロの現場で人々は何を見たのか。事件へのオウム真理教の関与の可能性は、早い段階で浮上していた。
機械的に搬送指示「非日常の世界だった」
30年前、6月27日の夜。信州大病院第二外科の研修医だった近藤竜一さん(56)は勤務中、ポケットベルが鳴った。親しい友人からだった。
電話すると、友は「吐き気と呼吸苦で体調がおかしい」と訴えた。車でアパートに駆けつけると、だるそうに横たわっていた。「酔っ払っているのか」と思ったが、そうではなかった。外からもうめき声。窓の外の路上には数人がしゃがみ込んでいた。
「ただ事ではない」。午後11時ごろに119番通報した。信大病院の医師が乗るドクターカーも来て、医師2人と分担して状況を確認した。農薬が水道の上流部に流された可能性を疑ったが、被害範囲が広すぎる。多数の人が体調不良を訴えており、「ガス中毒の可能性が高い」と判断した。
このアパートの人たちの安否確認に駆け回った。玄関前でうつぶせで倒れていた男性は、呼吸がすでに止まっていた。「瞳孔がピンホール(針穴)のようになっていた」。サリンを吸った際の「縮瞳(しゅくどう)」だった。日付が変わった頃、死亡者の確認が相次いだ。
「背筋が凍り付くほどの寒気」を覚えた。ただ、機械的に患者搬送の指示を出すことに没頭した。いま思えば、興奮状態だったのだと思う。病院で接する患者の生死とはまったく異なる「非日常の世界だった」と話す。
モニターに浮かび上がった「Sarin」
翌6月28日朝、保健衛生な…
- 【視点】
>6月29日から私の家には、無言電話、嫌がらせの電話、脅迫状、これが殺到するんです。これをとっていたのは高校1年生の長男です。 >あるいはメディアスクラム、こういうことも行われました。私が入院中、二、三十人の記者がいつも病院に張りついてい
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