第14回「誇張された社会の姿」 吉岡忍さんが語る青葉被告のハルヒ的世界観
人間は「器」のようなものです。何を盛りつけるかによって、完成するものは変わる。そして、盛りつけられたものに、その人の生きた時代性が反映されます。
事件の教訓を導くには、その時代特有のゆがみを明らかにする必要があります。しかし、裁判では時代性や社会的な背景はむしろそぎ落とされ、常識の範囲内での異常へと当てはめられ、単純化されてしまいます。どの事件も同じような背景だったというように結論づけられてしまう。
青葉真司被告には妄想があったとされていますが、その妄想にも時代性が深く結びついているはずです。同じ「妄想」でも、一人ひとり異なる妄想の構造があるし、その時代のリアリティーや切迫感があります。では、青葉被告に見えていた世界とは、どういったものだったのでしょうか。
社会をどうとらえるか、バブル期を境に起きた変化
僕は世界を認識する仕方を考えた時に、1990年ごろに大きな分断面があったと思っています。
90年ごろまでは、歴史的に物事を理解するのが常識でした。「歴史」とは連続的で時系列な世界の見方で、物事の因果関係を重視する。過去から教訓をくみ取ることが、現在の暴走を防ぐブレーキになる、というとらえ方です。
それまでの日本には、第2次世界大戦の敗戦を経て、高度経済成長による繁栄という両極端を大多数の国民が経験し、歴史的な体験が共通理解としてありました。そして、地縁血縁が根強い地域社会、企業社会が存在し、うっとうしい面もいっぱいありましたが、良くも悪くも、「安定剤」となっていました。
それが90年前後を境に、東西冷戦の終結、バブル経済の崩壊という、まさに世界のとらえ方を変える大きな出来事がありました。経済面では日本でも新自由主義政策が進められました。派遣労働の自由化で派遣、非正規の労働者が増えていきました。
「社会なんてものはない。個人としての男がいて、個人としての女がいて、家族がある。ただそれだけだ」という英国のマーガレット・サッチャー元首相の有名な言葉があります。新自由主義により、安定剤だった社会という基盤は失われ、個人あるいは家族は、ぽんっと不安定な世界の中に放り出されたのです。
95年には「ウィンドウズ9…
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