「本名はなんですか」 70歳を過ぎて語り始めた在日2世の戦後
大阪空襲の慰霊塔に刻まれた母、兄、妹、弟の名前をいとおしそうになでた。体を震わせ、声を絞り出した。
「これが母やきょうだいで、触れたらいいのに」
あの夏から79年。滋賀県野洲市の在日朝鮮人2世の鄭末鮮(チョンマルソン)さん(91)は7月9日、大阪市東淀川区の崇禅寺で八十回忌法要を営んだ。小雨のなか、境内の慰霊塔の前で妹や子どもたちと手を合わせた。
戦後、大阪空襲の記憶は封印してきた。語り始めたのは、70歳を過ぎてからだ。そんな鄭さんに5~7月に何度も会って、聞いた。なぜ語れなかったのか、なぜ語り始めたのか。
当時11歳だった。創氏改名によって「八渓(やげ)末子」と名乗り、大阪府東大阪市で家族7人で暮らしていた。1945年6月7日の大阪空襲で家族4人を亡くした。4人の遺体と対面していないので、死の実感がわかなかった。
戦後、15歳のときに在日朝鮮人1世で九つ上の夫と結婚し、「田中末子」として生きてきた。野洲市に移り住んだが、夫は日本語がままならない。定職に就くことは難しく、土木作業などの日雇い労働をした。
4人の子どもに恵まれた。ただ、生活は貧しかった。子どもを養うため、鋳物工場で働いた。過酷な環境での重労働に音を上げ、辞める人も多かったが、無我夢中で働いた。
鄭さんが本名を生きるまで半生、そして本名を語り始めたその後を振り返ります。
ある日、職場で出自がばれた…
【初トクキャンペーン】有料記事読み放題!スタンダードコースが今なら2カ月間月額100円!詳しくはこちら