インタビュー連載「電ゲン論」
「脱炭素社会」の実現が叫ばれるいま、あらためて「電気」をどうつくるべきなのかが問われています。原発の賛否をはじめ、議論は百出しています。各界の著名人にインタビューし、さまざまな立場から語ってもらいました。
2011年3月に東日本大震災が発生したとき、日本には原発が54基ありました。東京電力福島第一原発事故で、12年に全てが停止しました。電源構成に占める原発の割合は、10年度は25.1%でしたが、14年度にはいったんゼロになりました。
その後、福島事故の反省を踏まえてつくられた新規制基準のもとで、再稼働が進みます。現在は全国で12基が再稼働しており、電源構成に占める原発の割合は5.5%となっています。
日本のエネルギー政策は、東京電力福島第一原発事故後に激動の時代を迎えました。そのかじ取りを担ってきた日下部聡・元資源エネルギー庁長官に、その変遷と将来に向けた道筋を聞きました。
――エネルギー基本計画の改定に向けた議論が本格化しています。
「3年に1度、エネルギーの需要と供給サイドの有識者が一堂に会して、エネルギー戦略上の全ての課題の棚卸しをして、進展をレビューし、方針を決める機会です。震災後の計画を振り返ると、2014年の改定では、30年の電源構成が示されました。私が携わった18年の改定では、パリ協定を受けて、50年のゼロカーボンに向けて、水素や蓄電、原発など全ての技術を選択肢に入れました。前回21年は、脱炭素を加速する方向で電源構成を見直して、再生可能エネルギーの割合を上げたのがポイントかと思います」
目標にとどまった「原発ゼロ」
――福島事故の直後には、どのような議論があったのでしょうか。
「やはり大きな論点は、福島の事故を踏まえた上での原発依存の考え方でした。当時の民主党政権は、原発を限りなくゼロにしたいという方針を出しました。しかし、実際にゼロにするにはいろんな論点があり、目標として掲げることにとどまりました。例えば、日米原子力協定。原子力をやめれば、(使用済み核燃料からプルトニウムなどを取り出す)再処理もやめるということです。協定では、ウランの濃縮を自主的にやっていいという権利をもらっていますが、それを放棄することになります。日米同盟をどうするのかという議論にもなり、米国にも説明しないといけません」
「(使用済み核燃料の中間貯蔵の施設がある)青森県との関係もありました。原発をやめるということは、核燃料サイクルをやめることになります。県は国が最終処分地を見つけることを信頼し、中間貯蔵施設を置いていますので、『最終処分させてくれ』とは簡単には言えません。こうした本質的な議論を尽くした上でゼロを目標とはするが決めうちが難しかったということです」
――その後、原発への回帰が進みました。
「事故後、独立した原子力規制委員会が安全性を確認した原発の再稼働は行うことになり、14年の計画でこの方針が確認されています。そのうえで、18年の改定では脱炭素技術として、原子力を含めて開発をするという方針を出しました。(23年の)『GX(グリーン・トランスフォーメーション)実現に向けた基本方針』では、発電所敷地内のリプレースを認める形で、一定の方向性が出されました」
「このように、原発の安全を徹底的に高めて国民の信頼を確保する前提条件つきで、原子力という選択肢を可能な限り捨てないという議論が進んでいます。エネルギー戦略的に言えば、評価できる動きです」
――14年の計画以降は「可能な限り原子力依存度を低減」という表現が盛り込まれましたが、見直しの余地はあるのでしょうか。
「常に考え続けるべき大事な…
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